思うこと、思考の次元とより深い意識の次元の違いについては何度も書いていますが、普段の感じ方でハッキリと分かる違いがあります。
喩えれば、思考の方は、水をどっかの泉からすくってきて、器に注ぐようなものに対して、意識の次元というのは、そのコンコンと絶えず泉から水が湧き出ているようなものとの違い、と言ったらいいでしょうか?
思考というのは、例えば何かの真理が分かったように感じることもあるけれど、それはその時に分かったと思うだけで、時間が経つとそのジワッと感じたものはいつしか消えてしまい、器の水が無くなってしまうようなものです。
分かったことの記憶はあるものですが、それを表現するには、その記憶をなぞって表さなければなりません。
そうやって思考を組み立てたりする訳ですが、お分かりのようにそれは、観念の世界でなされているもので、何度も繰り返していたら、思考も行き詰まり、色あせてしまうものです。
これに対し、意識的な感じ方というのは、いつもそのアリアリとした、活き活きとしたものは頭でなく身に覚えられており、それを表す時は、分かるとか分からないということで無しに、その表さんとするものをいつも感じていることが出来るのです。
例えば、神的なものが臨在するという、現臨感などが正にそういうもので、現に臨んでいる感じが無ければ、それは単なる記憶をなぞった、言葉の説明に過ぎないものということなのです。もっともそれを聞かされている方は、同じ言葉で表されたりしたら、中々その違いは分からないのが普通でしょうが...
いや、そもそも言っているような思考と意識の次元の違い自体、それを考えていたりしても意識的になってみないと分からないのが普通なのかもしれません。
けれど、誰だって何かが“降りて来た“ように感じた時など、アリアリと活きたものを身に覚えることとかあるでしょう?
そう、そういうものは、単なる思いの記憶を超えて、身に覚えられたりするものなのです。
ただ思考の表層で感じたものよりも、ずしんと何か重い、ウェイトを持ったもののように感じるはずです。だからそれが“重要“なことなんです!
端的に言えば、それは消えてゆくものか、消えないものかの違いでしょう。
意識的になることは誰でも感じているものだし、それは全くもって人間存在にとり思考よりも本来的なものであり、固有に結びついているものと言えるのです。
意識的になるには、自分にとって大事なことを感じたなら、ただそう思ったと思うので無く(ヘンな言い方)、じっくりと重く感じてみたらいいのです。
だから、ただ消えてゆく姿となるだけの思考なんて考えるだけ無駄なことなのですよ!...って、そんなこと言うつもりはありません!
生まれつき与えられたものに無駄なことなど一つもありません。思考が無ければどうなるか、“考えてみれば“分かることじゃないですか?
先のように、何かの真理が分かったように、何かが降りて来たように感じたなら、そう思考されたものを、意識次元につなげることは可能なはずなのです。
というか、私が現臨感について何かを書いている時などは正にそう自然にやっていることなのです。
思考すること無しに、どうやってあの何か意味深そうな、ケッタイそうな真理らしきことなど書けるものかってんですよ!
要するに、思考されたものを意識次元に立脚したもの、そこから切り離されないものにすることです。そうでなければ観念に浮いてしまうか、息詰まってしまいます。
意識の泉から思考の器をつなぐには管を通せばいいのです。
それも、“あいつはどうも言っていることが何か普通でない、何かを悟っているのか、単にオカシイだけなのか?“、と思わせる人なんかは自然にやっていることだったりするのですけどね?
ふふふ(別に意味の無い笑い)...
喩えれば、思考の方は、水をどっかの泉からすくってきて、器に注ぐようなものに対して、意識の次元というのは、そのコンコンと絶えず泉から水が湧き出ているようなものとの違い、と言ったらいいでしょうか?
思考というのは、例えば何かの真理が分かったように感じることもあるけれど、それはその時に分かったと思うだけで、時間が経つとそのジワッと感じたものはいつしか消えてしまい、器の水が無くなってしまうようなものです。
分かったことの記憶はあるものですが、それを表現するには、その記憶をなぞって表さなければなりません。
そうやって思考を組み立てたりする訳ですが、お分かりのようにそれは、観念の世界でなされているもので、何度も繰り返していたら、思考も行き詰まり、色あせてしまうものです。
これに対し、意識的な感じ方というのは、いつもそのアリアリとした、活き活きとしたものは頭でなく身に覚えられており、それを表す時は、分かるとか分からないということで無しに、その表さんとするものをいつも感じていることが出来るのです。
例えば、神的なものが臨在するという、現臨感などが正にそういうもので、現に臨んでいる感じが無ければ、それは単なる記憶をなぞった、言葉の説明に過ぎないものということなのです。もっともそれを聞かされている方は、同じ言葉で表されたりしたら、中々その違いは分からないのが普通でしょうが...
いや、そもそも言っているような思考と意識の次元の違い自体、それを考えていたりしても意識的になってみないと分からないのが普通なのかもしれません。
けれど、誰だって何かが“降りて来た“ように感じた時など、アリアリと活きたものを身に覚えることとかあるでしょう?
そう、そういうものは、単なる思いの記憶を超えて、身に覚えられたりするものなのです。
ただ思考の表層で感じたものよりも、ずしんと何か重い、ウェイトを持ったもののように感じるはずです。だからそれが“重要“なことなんです!
端的に言えば、それは消えてゆくものか、消えないものかの違いでしょう。
意識的になることは誰でも感じているものだし、それは全くもって人間存在にとり思考よりも本来的なものであり、固有に結びついているものと言えるのです。
意識的になるには、自分にとって大事なことを感じたなら、ただそう思ったと思うので無く(ヘンな言い方)、じっくりと重く感じてみたらいいのです。
だから、ただ消えてゆく姿となるだけの思考なんて考えるだけ無駄なことなのですよ!...って、そんなこと言うつもりはありません!
生まれつき与えられたものに無駄なことなど一つもありません。思考が無ければどうなるか、“考えてみれば“分かることじゃないですか?
先のように、何かの真理が分かったように、何かが降りて来たように感じたなら、そう思考されたものを、意識次元につなげることは可能なはずなのです。
というか、私が現臨感について何かを書いている時などは正にそう自然にやっていることなのです。
思考すること無しに、どうやってあの何か意味深そうな、ケッタイそうな真理らしきことなど書けるものかってんですよ!
要するに、思考されたものを意識次元に立脚したもの、そこから切り離されないものにすることです。そうでなければ観念に浮いてしまうか、息詰まってしまいます。
意識の泉から思考の器をつなぐには管を通せばいいのです。
それも、“あいつはどうも言っていることが何か普通でない、何かを悟っているのか、単にオカシイだけなのか?“、と思わせる人なんかは自然にやっていることだったりするのですけどね?
ふふふ(別に意味の無い笑い)...
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