人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真の神人合一

2023-10-08 09:27:11 | 
私にはもう、神は信仰の対象では無くなってしまいました。
神(何度も言っているように、それは実体論的には分からないが、思いを超えたものを象徴して表しているのです)無しには、私の実存の根拠を見い出すことは出来ません。又神は、私の実存を通して顕わになり現存、現臨するのでしょう。
これは、ベルジャーエフがその哲学の根幹である、”神人論”として、随所に語っていたことです。
又、ラマナ.マハルシの教えは、つねに神は真我と結びつけられていました。
わが国の神道でも、”神は本、人は末”、”神あっての人、人あっての神”と説かれてきました。
こうした教説というものは、当然のことながら、自己の実存に照らされなければ何の意味もありません。
実存に照らされる?!...そう、照らされるものがあるのです!
これこそは、自己実存はそれのみで在るのではなく、それを超えたものと結びついて在ることを端的に物語っていると言えるのではないか?!
多くの精神的な道では、我々が神と一つになることを目指しています。神人合一の道という。
しかし、これまではそのほとんどが、我々からのその道標、道程が示されるばかりだったと言えるのではないでしょうか?
然るべき信仰や方法論などが提示されるものの、現実には果たしてその境地に開かれ、達した例はどれだけあったでしょうか?
私には、全くの片手落ちがあるようにしか思えないのです。
求道者には、神への憧憬がある、神と一つにならんとする願いがある...しかし、そこにはもっと本源的なことが見落とされているのではあるまいか?
本源的とは、我々のそうした心持ちに先立つものがあるという意味です。
それは、神の方が我々と一つにならんと願って(願いという人間臭い言葉が適当かどうかは分からないが...)いるのではないかということです。
それあってのこちらの神への憧憬なのではないか?...そう呼び覚まされるものがあるのです。
この”本願”に合わずして、神人合一などそもあり得ないのではあるまいか?!
本願に合(会)うということは、こちらからは祈りを通してということになるでしょう。こういう消息を伝えたわが国の親鸞さんは実に素晴らしい!
しかし、それも宗門の壁を越えられず、形骸化に至ってしまったようです。
どこまでも、それは我々一人の実存、神的な現存の光に照らされなければ、生きたものにはならないのです。
真にそこで人は神と合(会)う、一つとなる...
もう一方の、本源的神からの道と合わさって、真の神人合一の道が開かれるのでしょう!...
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