人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

能動性と受動性

2023-10-09 10:06:16 | 意識、照明
私がシツコイほど言っている、”○○に意識を向ける”、という表現は、どうも能動的に意思想念に働きかけることを連想されがちなので、不適当なようにも思えるのです。
これは、思い、為そうとする心的在り方からすれば、それを退けること、否退かしめるものにゆだねること、つまり受動的なことを言い表しているのです。
このことに関連して、ベルジャーエフは、著書「人間の運命」の中で、その哲学の根幹である「創造」と結び付けられる、能動的精神を高調する観点から、「現象学」で有名な哲学者、フッサールの受動的精神の在り方を批判していました。
実はフッサールの哲学は、私には難しく、読んでないのでよく分からないのですが、その該当部分の言葉、「我々がある対象を認識するためには、すべて人間的なものを断念し、全く受動的になって対象が我々に語りかけるのを待たなければならない」とあるのは、私にはとても肯けるものを感じ、ベルジャーエフの批判理由がよく分からないのです。
例えば、神を意識するということは、それが人間的なものの放棄かどうかはさて置き、先のように思念、意念が後退することを意味し、それと同時に思いを超えたハタラキに捉えられるようになるのです。
そして、ベルジャーエフの言う、創造的、能動的精神というものが、果たしてそれが思いを超えた世界の消息を伝えるものなのか、ということが曖昧に感じられるということなのです。
しかし私には、それはあまり本質的なこととは思っていません。
これは取りも直さず、ベルジャーエフの生きた時代(20世紀前半から中葉)には、まだ意識というものの究明が十分になされていなかったことに要因があるのでしょう。
ベルジャーエフは、随所で精神が霊なるものに開かれ、交わることを強調しています。否、我々の精神(SPIRIT)そのものが、その根底で霊性とつながっているとも。
これが思いを超えた世界の消息を物語っていると言えるのです。
それは同書で彼が「我々は、真の精神的勝利を”超意識“の領域ー則ち意識にあらず、まさに霊の領域において戦い取らなければならない」と明言しているところにも伺うことが出来ますが、同時にそれは、先の意思想念と意識の区別の曖昧さ、又彼の旺盛なる能動的精神の表れも見て取れるものです。
思考を超えた、所謂“純粋意識“の領域とは、ここでは超意識の領域とされているのです。
では、この純粋、超意識なるものとは能動性、受動性に分けて説明出来るものなのでしょうか?
私は、こういう分節的な表し方自体が不適当だと思います。
純粋意識は、自他は勿論、あらゆる相対性を超越したものだから!
精神の能動性、受動性といったことは、思い、為す自己からの観点に当てはまるものでしょう。
意志の後退、受動性とは、意識の能動的ハタラキを呼び覚ますことにつながりますが、意識そのものには、能動性も受動性もなく、それは自ずから在るものなのです。
この状態、霊性とつながることを目指す我々には、能動的精神も受動的精神もあるでしょう。
それは男性性と女性性に置き換えることも出来るかもしれません。
一人の人間は、勿論その両性を合わせ持つものでしょうが、どちらかに傾くことも勿論あります。
私は霊性により近いものは、女性的な受動的精神の方だと感じている点で、能動的精神をより強調するベルジャーエフとは異なっていますが、霊性に目覚めることを指向する精神には全く同調するものを感じているのは言うまでもありません。


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