「我は在りて在るものなり」(旧約聖書、出エジプト記3章)
ユダヤ、キリスト教など聖書の宗教は、超越的な神を説き、仏教、インド教などは内在的な神(仏)を、あるいは又東洋は一元的、西洋は二元的だとか...知らんわ!
こういう、ザックリと紋切り型に分けてしまう教科書的説明は、頭で分類するにはちっとは役に立つのでしょうが、一度中に踏み込んで、実存に触れるまでになれば、全く適応させることなど出来なくなります。一の二だの言っておれるか、ってんです!
本当に神を求め、関わろうとするならば、超越か内在か、といった抽象論などコッバミジンになってしまうのです。実存に触れるというのはそういうことですよ。
神に具体的に関わることでそうならざるを得ない...超越的なものと実存的なものは切り離すことは出来ないのです!...これは、古今東西の如何なる宗教的な道に言えることじゃありませんか?
そして私には、上掲した言葉ほどこの消息を端的に、ストレートに言い表したものは他に思い尽きません!
ラマナ.マハルシも、「真我、神を定義した言葉で、これほどふさわしいものはない」と述べています。
小池辰雄先生は、この「在るもの」のところを「在らしむるもの」と言い換えて、この実存的関係がより伝わるものにしています。神が在ることが私が在らしめられることなのだ、と...。
又、このモーシェに臨んだ、ヤハウェの神を「実存主」と呼んでいるのが素晴らしい洞察だと思います。
この神との実存的関係は、言うまでもなく現臨から来るのです。
神的な現臨にあって、個体的な枠、肉体感覚で中と外を隔てているような壁が希薄になって、自分の中も外も吹きさらしになってしまう感じになります。
古来から霊なるもののことを風(プネウマ)とは、よく言ったものだと思いますね。
そしてそこには、超越的なものからも、実存的、内在的なものからも「私は在る」という言葉以前の根源語のようなものが鳴り響いているのです。
私がこの現臨感覚を覚えた端緒というものが、意識を失いそうになり、自分がどっかに消えてしまいそうにも、言い知れぬ恐怖に襲われた時、思いの彼方から臨んだ、正に「大丈夫だ!、私はここに在る!、私は在るのだ!」という響きによって「私はここに在る!」ことが出来た、ということだったのでした...。
ユダヤ、キリスト教など聖書の宗教は、超越的な神を説き、仏教、インド教などは内在的な神(仏)を、あるいは又東洋は一元的、西洋は二元的だとか...知らんわ!
こういう、ザックリと紋切り型に分けてしまう教科書的説明は、頭で分類するにはちっとは役に立つのでしょうが、一度中に踏み込んで、実存に触れるまでになれば、全く適応させることなど出来なくなります。一の二だの言っておれるか、ってんです!
本当に神を求め、関わろうとするならば、超越か内在か、といった抽象論などコッバミジンになってしまうのです。実存に触れるというのはそういうことですよ。
神に具体的に関わることでそうならざるを得ない...超越的なものと実存的なものは切り離すことは出来ないのです!...これは、古今東西の如何なる宗教的な道に言えることじゃありませんか?
そして私には、上掲した言葉ほどこの消息を端的に、ストレートに言い表したものは他に思い尽きません!
ラマナ.マハルシも、「真我、神を定義した言葉で、これほどふさわしいものはない」と述べています。
小池辰雄先生は、この「在るもの」のところを「在らしむるもの」と言い換えて、この実存的関係がより伝わるものにしています。神が在ることが私が在らしめられることなのだ、と...。
又、このモーシェに臨んだ、ヤハウェの神を「実存主」と呼んでいるのが素晴らしい洞察だと思います。
この神との実存的関係は、言うまでもなく現臨から来るのです。
神的な現臨にあって、個体的な枠、肉体感覚で中と外を隔てているような壁が希薄になって、自分の中も外も吹きさらしになってしまう感じになります。
古来から霊なるもののことを風(プネウマ)とは、よく言ったものだと思いますね。
そしてそこには、超越的なものからも、実存的、内在的なものからも「私は在る」という言葉以前の根源語のようなものが鳴り響いているのです。
私がこの現臨感覚を覚えた端緒というものが、意識を失いそうになり、自分がどっかに消えてしまいそうにも、言い知れぬ恐怖に襲われた時、思いの彼方から臨んだ、正に「大丈夫だ!、私はここに在る!、私は在るのだ!」という響きによって「私はここに在る!」ことが出来た、ということだったのでした...。
つたない私の妄想が、この記事からこんな空想が浮き立ちました。
いつも人間の側に立って(必然的にです)苦を舐めるしかない私ですが、ある日それを味わう度胸がついて眺めていたら、苦悩が雲(韻を踏んでいま^す^)に思えました。すると雲の中から黒いものがうかびあがって 来て、それが見る間に巨大な山脈の頂になり、黒々とした山腹が現われ、雲は頼るものもなく散り散りに消えて行きました。その時これ(山)が私だと意識がすり替わったのです。意識はなくなるのではなく、移行する。言葉をまとった意識から素のままの意識にでしょうか。
真我に至るために言葉をはぎ取るのではなく、自ずと脱がせる(太陽と旅人みたいに)ことでなくては信仰心の持てない私には至れなかった境地かなと思いました。言葉過多で申し訳ないです。
言いたいことは、人間の認識(思考)は愛を持って尊重すべきだと、きっとそこにまだ人間自身が気付いていない本来の意味が隠されているのではないかと思いたいのです。
私はつねに人間が、本当の私が何かは分からないまま、人間(とされる)側にしか立つことが出来ません。
苦悩にある時、苦悩に向き合おう、味わおうと試みたこともありましたが、私自身からは無理でした。
それはいつも、私を超えたものによって自ずからそうなるのです。
”意識は移行する”、実にうなづけます。
又、思考は愛と切り離されないものであることに人間に隠された意味があると感じています。
意識は個の中に閉ざされていて、決して他人の心を見ることも共有することも出来ませんが、その事実を未来永劫の真実と思い込んで頭を打たないように引き下がる。(魚の実験もありますが)人間も同じで、それを賢い生き方と称賛しますね。
けれども、私は何度も何度も頭をその壁に打ち付けたいのです。するとどうです?見えないはずの他人の心が意外な形で共有する道が開けることもあるのですね。無かったら無かったで別に大したことでもないのですから、意識のつくる私空間とそれを包む公空間のダイナミックな交流を見たいのです。(何を言っているのか分からなくなってきまし^た^)
詰まる所、頭を打ってもいたくないことだけは分かりましたので、何度でもok。現臨(空体)を背後に感じながらもう少し人間を見つめたいのですね。時間を脱却して実在をスケールの概念でみる。これだけでも人間は一つ次元を超えた世界観を描ける。人間の認識力が上がるのです。つまり可能性はまだまだ無限にあるのかもしれません。
苦悩を論理で克服することは、少なくとも私の体験ではあると、錯覚しております^よ^
一貫して、自分を超えたもの無くして、その壁は超えられない、ということを言っているのですが、私には出来なくとも(少なくとも苦悩は論理で克服することは)、貴方のような人は居るし、必要だとも思っています。それが人間(とされる)生き物のある面で宿命とも言えるでしょう。けれどある面”のみ”ということも限定は出来ないでしょう。
人間にはまだまだ未知の、可能性というものがあるということなのでしょう。
その理由は、苦悩は論理そのものだからですね。論理という筋だったものでなくても、それは現臨(空体)からやって来たものではないのは言うまでもないことですよね。論理というものは無茶苦茶なもので、一つの出来事を「良い」とも「悪い」とも導き出せるのです。
けれどそれが人間のかわいい所だと私は思うのです。
実のところ、このブログも論理そのものですよね。(いわゆる理論でない理論ですね)現臨の表現はそもそも無理なのです。御存じのようにそれは渓谷の対岸です。
大事なことは発信者が現臨を見たのかどうかです。
私はそれをシタテルヒコ様に感じるのです。
それで厚かましくも、こんな形で度々おじゃましています。
その下心はつまり、私の出逢ったスケールの概念は人間に役立つのかどうかを検証してもらえる方だと思ういちるの希望なのです。
貴方の空体についての説明にも、直感なしには言い表せない、そういうものを感じます。
ただ、幾分どっちか寄り?ということはあっても、同じようなアプローチをしているんじゃないかなあ、と思っています。
勿論、私にもどれだけ役に立つのかはともかく、私が感じていることを他者に伝えたい、という意図はありますよ。
一つ、率直な感想ですが、貴方の空体の説明にはものすごーく共感したのですが、スケールの概念というのは、イマイチ伝わりにくいです。前者に比べて分節的に感じてしまうのです。勝手なこと言ってスミマセン。
スケールの概念です。
伝わるか、伝わらないのか、
伝わらないのなら、どこに問題点があるのか
そもそも伝える意味がるのか、無いのか、
いやいや、伝えるなんてそもそもおこがましいのです
あなた様の中で、スケールの概念は意味があるか、無いか
それを検証して頂きたいのです。
もし、私が思うような世界観があなた様にも生まれるなら、これは人間の認識を根本から変える(次元を超える)可能性があると思うのです。
ここまで付き合って下さった方と、私は初めて出遭った気分です。
どこが伝わらないか、そこを知りたいのです。知ったうえで伝わる言葉を探りたいと願っています。
めんどくさい男に捕まったと思われるなら退散します。しかし私は人間の真実を知りたい。その想いだけで半世紀を過ごしてきました。同じ匂いを感じて押しかけ女房のようですが、五次元と向かい合っていただけませんでしょうか。
私の手法は直観です。その直観を言葉に置き換えているのが五次元なので、五次元の本質はあなた様と同じです。そう直観しての、プロポーズ(笑)であることは本当です。
これはあくまで私の感じを言ったまでです。何も一つの表現に拘らなくとも、現臨というのも一つの表現に過ぎないのですし、もっと自由な知性と感性でその人間の隠された世界について究められたら...と要らんこと言うようですが参考まで...
私が言うのは文節的ではなく、文節そのものなのです。思考が段階的に現臨に向かうための新しい認識方法があるという話なので、現臨をいまだつかめないものでも登って行ける段差と考えています。
もう最後にしますので、少しだけおゆるし下さい。
例えば認識ですが、今人間は三次元の空間と時間の概念(四次元)で世界を認識していますが、思い描く世界は自分を時間によって移動するという世界感覚なのですね。ところがスケール概念で世界を見ると、時間は動かないで、自分の内側にある小宇宙のひろがり、さらに自分の外に向かっては、地球を一素粒子にして人体を作っている巨大な人間をイメージすることが出来るのです。つまり今この瞬間の実斬する己を宇宙と共に理解できる訳です。自分の大きさが無限大であるというイメージがスケールの概念で得られるのですね。自分の大きさはこの大きさという固定観念を捨てたら得られる自分=世界の大きさです。そしてその世界は過去や未来という無ではなく、極小世界も極大世界も、現に今ある実在世界なのですから、認識で現臨に迫りうる最大の世界観と言えるのです。もちろん残差は歴然としてあります。しかし現在人にとって、このイメージは役に立つのではないだろうかという想いなのです。
表現に拘るというよりも、認識そのものの在り方を考えてみる価値があるように思えるのです。
本当に長々申し訳ありませんでした。
付き合っていただいてありがとうございました。