私が初めて人生の裏側へと踏み込んでしまった時のこと、今でもアリアリと覚えています。
特にその直前のことは、思考がまだ働いている状態だったので”普通に”記憶もされているのです。
その思考もかなり後退していて、普通に能動的に頭を働かせることは困難で、風然の灯火という感じだったのです。
”神的なものが臨んだかと思ったら、それが私の内奥に迫って来る、意識に浸透して来るではないか!”
それがどういうことを意味しているかは、何となく直観で分かるのです。
”これが、本でしか読んだことが無い、あの宗教的回心、精神的目覚めに与ることなのか?...しかし、おかしいではないか!、何でこの凡夫の罪深い、ロクにそういう修行もしてない、カルマの清算もしてない、私にそういうことが起こるのだろうか?”、とこういう疑問がもたげて来たのです。
だけど、そういう薄くなった私の思いとは別に、意識の方がそれに向かってしまうのです。これは私の意志想念では止められず、もうどうにもなりません。それを受け入れるしかないのです。
何がそうさせるのか?、それが直観で分かることなのです。
”この扉の向こうには、信じられないような、愛、平安、リアリティがある!”
そうして、強烈な精神的嵐みたいなものに見舞われて、裏側へと踏み入れてしまったという訳です。
そうなると、もうすっかり思考機能はマヒしてしまい、もはや意識的に感じるだけです。暑いとか冷たいか、そう、思考が働かないということは感じられるのです。
そして、ついさっきまで思っていた、私の罪のことや、カルマのこと、それに与るのに私は値しない、といったことなどはすべて消えてしまったのです!
ただ、”私はこのものにあって、ここに在る”、と意識されているだけなのです。
その私は、正しいも悪いも、優れているも劣っているも無い、ダメもクソも無いのですよ!
そういうものは、すべて考える私が考えていたこと、世の中が私をどう見ているか、人の目に映っているだろう、という私のことだったのです。
こういう思いからすべて解放されてしまったのです!
どうか、このことを自分自身に置き換えて、よ~く考え、感じてみて下さい。
これは、私には悟りだ、なんだと言うよりは、救いでなくてなんであろう!
常人よりうんと進んだ悟りの境地、完全覚醒に至ろう、なんて言うのはエゴ.マインドに囚われているのであり、むしろ、常人より迷った境地に居るのであって、ちっとも救われてなどいないのですよ!
だから、私は悟ったのです!...いや、そおじゃあない!
悟りもヘチマもない!...ありのままの自分に在らしめられただけです。
そこに何の色も付け足しもない自分。これをある意味で”真我”と言ってもバチは当たらないだろう!
といって、それは言うまでもなく、凡夫の私が真我になった、そういう境地に到達したということじゃないですよ!
これは、神のみ前にある、その光に照らされたままの自分が、本当も偽りも無い真我だということなのです。
そこには、五井先生も言ったように、神と真我しか無い!、あとは消えてゆく姿と言ってもいいのです。
だからといって、そういう状態がずっと続いていた訳じゃない、そうは問屋は下ろさないようで...数日して、そういう状態は元の黙阿弥になってしまいました。
しかし...だからだからといって、それは表層部分のことであり、消えてしまった訳ではなく、地下水のように、私の奥の方で息づいているのです。
現にこうして、アリアリと言い表すことが出来る。記憶を辿って。いいやそれだけじゃない!
これがずっと息づいていることを物語っているんだ!
上記したことを、新鮮な水がコンコンと溢れ出て来るように、ヒシヒシと感じて書いているのですから!
霊性の道にあって、理性のギリギリの状態で言えることはこれしか無いでしょう。
”神と真我しか無い!”
特にその直前のことは、思考がまだ働いている状態だったので”普通に”記憶もされているのです。
その思考もかなり後退していて、普通に能動的に頭を働かせることは困難で、風然の灯火という感じだったのです。
”神的なものが臨んだかと思ったら、それが私の内奥に迫って来る、意識に浸透して来るではないか!”
それがどういうことを意味しているかは、何となく直観で分かるのです。
”これが、本でしか読んだことが無い、あの宗教的回心、精神的目覚めに与ることなのか?...しかし、おかしいではないか!、何でこの凡夫の罪深い、ロクにそういう修行もしてない、カルマの清算もしてない、私にそういうことが起こるのだろうか?”、とこういう疑問がもたげて来たのです。
だけど、そういう薄くなった私の思いとは別に、意識の方がそれに向かってしまうのです。これは私の意志想念では止められず、もうどうにもなりません。それを受け入れるしかないのです。
何がそうさせるのか?、それが直観で分かることなのです。
”この扉の向こうには、信じられないような、愛、平安、リアリティがある!”
そうして、強烈な精神的嵐みたいなものに見舞われて、裏側へと踏み入れてしまったという訳です。
そうなると、もうすっかり思考機能はマヒしてしまい、もはや意識的に感じるだけです。暑いとか冷たいか、そう、思考が働かないということは感じられるのです。
そして、ついさっきまで思っていた、私の罪のことや、カルマのこと、それに与るのに私は値しない、といったことなどはすべて消えてしまったのです!
ただ、”私はこのものにあって、ここに在る”、と意識されているだけなのです。
その私は、正しいも悪いも、優れているも劣っているも無い、ダメもクソも無いのですよ!
そういうものは、すべて考える私が考えていたこと、世の中が私をどう見ているか、人の目に映っているだろう、という私のことだったのです。
こういう思いからすべて解放されてしまったのです!
どうか、このことを自分自身に置き換えて、よ~く考え、感じてみて下さい。
これは、私には悟りだ、なんだと言うよりは、救いでなくてなんであろう!
常人よりうんと進んだ悟りの境地、完全覚醒に至ろう、なんて言うのはエゴ.マインドに囚われているのであり、むしろ、常人より迷った境地に居るのであって、ちっとも救われてなどいないのですよ!
だから、私は悟ったのです!...いや、そおじゃあない!
悟りもヘチマもない!...ありのままの自分に在らしめられただけです。
そこに何の色も付け足しもない自分。これをある意味で”真我”と言ってもバチは当たらないだろう!
といって、それは言うまでもなく、凡夫の私が真我になった、そういう境地に到達したということじゃないですよ!
これは、神のみ前にある、その光に照らされたままの自分が、本当も偽りも無い真我だということなのです。
そこには、五井先生も言ったように、神と真我しか無い!、あとは消えてゆく姿と言ってもいいのです。
だからといって、そういう状態がずっと続いていた訳じゃない、そうは問屋は下ろさないようで...数日して、そういう状態は元の黙阿弥になってしまいました。
しかし...だからだからといって、それは表層部分のことであり、消えてしまった訳ではなく、地下水のように、私の奥の方で息づいているのです。
現にこうして、アリアリと言い表すことが出来る。記憶を辿って。いいやそれだけじゃない!
これがずっと息づいていることを物語っているんだ!
上記したことを、新鮮な水がコンコンと溢れ出て来るように、ヒシヒシと感じて書いているのですから!
霊性の道にあって、理性のギリギリの状態で言えることはこれしか無いでしょう。
”神と真我しか無い!”
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