先日、ネットで全託について調べていたら、五井先生の教えを継承していて、“全託道場“を謳っている集会(現在はもう活動してないと思われます)で、こんな質問がその代表のMさんに寄せられていたのを目にしました。
それは、“全託をしたら、それまで長年打ち込んでいた善行は消えてゆくのでしょうか?“、というような内容でしたが、質問者は善行を後生大事なものと思っているから、こう尋ねているのでしょう。
それに対してMさんは、“その善行が五井先生の平和運動につながるのなら、消えてゆくことは無い“、とか色々言っているんですが、私はそれが全託というのなら、それまで積み上げて来た善行など消えてしまってもいいではないか、と思ったのでした。(エラそうなこと言うようですが、“全託道場“なんて、それほどのものかいな、と思いますよ!)
これは、信仰でも修行でも同じことでしょう。そもそも一体何のための善行、信仰、修行なのでしょうか?
本当に全託したら、それまで後生大事にしていたものは、消えてゆく姿となるはずです。
...といっても全託というのは、自分でやろうとして出来るものでもないし、“全託しよう!“と決心したってそうなるものじゃないですが...
それにその言葉どおり消えるのかといったら、それはそれ、これはこれのようなことでしょう?
ここでの、消えてゆくことの本質的なことは、その後生大事なものとして、自分が固着、執着している思いから自由になるということでしょう。
それよりも、もっと代えのきかないくらい大事なものに目覚める、ということではないでしょうか?
思いの固着が心の根っこから離れる、フライパンを洗剤で洗うと油が浮くようになってしまう、それが消えてゆくということを意味しているのでしょう。
だから、常に思いをその超えたものに開いておくことが大事なことなのです。
従って、これは自分の意志に反して、神が強制的にそれまで大事にしていたものを取り去ってしまうということでは無いのです。
神に操られるままということは無い!、表層の自分は抵抗していても、奥の方の自分(真我と言ってもいいでしょう)は、同意しているという、極めて主体的な在り様と言えるのです。
だから、一度神の手に捉えられて、全託せざるを得ない状況になると、意志想念で止めることは出来ないのです。
“え?、全託すると、それまでの自分でなくなりそうでコワイ?“...うん、アルアル!...変わる時は変わるし、変わらない時は変わらないでしょう?...しかし、根底は何かしらひっくり返るはずです!
一体、何を恐れる必要があるのでしょう?...というようなことは、今の私が言っていることなのでして、前回書いたことに加えて、ああなる直前、そういう恐怖がもたげていたのでした。
でも、それもあの今生で味わえないような愛、平安、リアリティの抗し難い誘惑(?)によって乗り越えられたという訳なのです。
神のみ前に在り、神と一つなるのなら、善行や信仰、修行が、他の何ものも、消えてゆく姿になっても構わないではないか?!
あなたの主はすべてご存じなのです。
他人にではなく、どこまでも、主にゆだねるのみ!...
それは、“全託をしたら、それまで長年打ち込んでいた善行は消えてゆくのでしょうか?“、というような内容でしたが、質問者は善行を後生大事なものと思っているから、こう尋ねているのでしょう。
それに対してMさんは、“その善行が五井先生の平和運動につながるのなら、消えてゆくことは無い“、とか色々言っているんですが、私はそれが全託というのなら、それまで積み上げて来た善行など消えてしまってもいいではないか、と思ったのでした。(エラそうなこと言うようですが、“全託道場“なんて、それほどのものかいな、と思いますよ!)
これは、信仰でも修行でも同じことでしょう。そもそも一体何のための善行、信仰、修行なのでしょうか?
本当に全託したら、それまで後生大事にしていたものは、消えてゆく姿となるはずです。
...といっても全託というのは、自分でやろうとして出来るものでもないし、“全託しよう!“と決心したってそうなるものじゃないですが...
それにその言葉どおり消えるのかといったら、それはそれ、これはこれのようなことでしょう?
ここでの、消えてゆくことの本質的なことは、その後生大事なものとして、自分が固着、執着している思いから自由になるということでしょう。
それよりも、もっと代えのきかないくらい大事なものに目覚める、ということではないでしょうか?
思いの固着が心の根っこから離れる、フライパンを洗剤で洗うと油が浮くようになってしまう、それが消えてゆくということを意味しているのでしょう。
だから、常に思いをその超えたものに開いておくことが大事なことなのです。
従って、これは自分の意志に反して、神が強制的にそれまで大事にしていたものを取り去ってしまうということでは無いのです。
神に操られるままということは無い!、表層の自分は抵抗していても、奥の方の自分(真我と言ってもいいでしょう)は、同意しているという、極めて主体的な在り様と言えるのです。
だから、一度神の手に捉えられて、全託せざるを得ない状況になると、意志想念で止めることは出来ないのです。
“え?、全託すると、それまでの自分でなくなりそうでコワイ?“...うん、アルアル!...変わる時は変わるし、変わらない時は変わらないでしょう?...しかし、根底は何かしらひっくり返るはずです!
一体、何を恐れる必要があるのでしょう?...というようなことは、今の私が言っていることなのでして、前回書いたことに加えて、ああなる直前、そういう恐怖がもたげていたのでした。
でも、それもあの今生で味わえないような愛、平安、リアリティの抗し難い誘惑(?)によって乗り越えられたという訳なのです。
神のみ前に在り、神と一つなるのなら、善行や信仰、修行が、他の何ものも、消えてゆく姿になっても構わないではないか?!
あなたの主はすべてご存じなのです。
他人にではなく、どこまでも、主にゆだねるのみ!...
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