「息子よ、そんなのが本当かどうかは大した問題じゃないんだよ」
(マクドナルド.ベイン著「解脱の真理」.霞ヶ関書房刊)
このブログでコンスタントに人気を集めているらしい記事は、スコットランド出身のヒーラー、霊媒マクドナルド.ベインの「心身の神癒」という書物の書評モドキのものです。
一般には、そんなに知られておらず、ごく一部の本しか紹介されていないにも拘わらず、この謎の著者には今もなお隠れた、熱烈な支持が集まっているようです。
「解脱の真理」は、著者がその人生の一大転機になったであろう、秘境ヒマラヤにおける"見える"あるいは"見えざる"導師、大師との交流、そこから数々の啓発に預かった模様を記したもので、こちらを前編とすれば、94年に出された「キリストのヨーガ」(出帆新社刊)はその後編に当たるもので、合わせて読まれることをオススメします。
私が"前編"にめぐりあったのは、昭和54年の夏頃。何度か触れているように、その年初めから私の心身にあのジンジンとした感覚が芽生え出したのですが、同時に宗教などで語られる神、霊的存在、霊界、幽界、前世...といった、何らの確証も無く、それを知ったからといって、何らの魂を揺さぶる高揚も、愛の実感ももたらさない言辞、やたらと相対観ばかりを強めるばかりの"ここにしかない教え"といったものに対し、にわかに疑問が生じてきたのでした。
そして"固定観念をいくら信じ込んでも、頭で分かったつもりになっても、ホントには何一つ理解などしていないし、むしろそれが開かれる通路を閉ざすことになるだけではないか..."という気付きが強くもたらされたのです。
そんな折、この本を手にとり、目次を見て「何々...秘法の伝授?、神秘の交霊会?"なんかなあ"...」というものは過ったものの、「実在は心の中で作りあげられるものではない。実在はそれ自らで実在するのだ。...君の心が何ものにも捉われず自由になった時初めてそれは出現する。...」といった、師の言葉の片鱗に触れ「全くそのとおりだi...そのとおりでありすぎるではないかi」と感じざるを得なくなったのでした。
それは、触れる度にもたげてくる、その言い知れぬ高揚感、そして理屈抜きにそこに惹き付けてやまないもの...こういうものがアリアリと実感されたからです。
ベイン師は、この秘境探検に赴く以前から、知らずにそれに預かっていたようですが、見えざる導きとはこのようなものなのでしょうか?
ただ、あまり本質的でないことですが、このストーリーには、"作り話ではないか?"という疑いがないわけではありません。(何らかのこの本で書かれているような神秘的邂逅というものがあったのは間違いないでしょうが...)
"見える"導師については、おそらく当地のラマ教の師家と思われ、この書でもその界隈には数々の迷信、妄信が取り巻いている様相が描かれていますが、果たしてそこにあんなにも普遍性に根差した教えを語るマスターが、ラマ僧の覆面をして"上手く"潜んでいたりなどするものでしょうか?
私の推測ですが、これはベイン師自らはその師性を隠匿し、その内なる普遍世界からの音信の数々の出所を数人の"見える、見えない導師"に帰しているように思われるのです。
これは「心身の神癒」で、別の形で霊現したキリストに帰していることと通じるものが伺えるでしょう。
序文で「私自らは何らの主張をも為すものではない...」と述べていることを著者自らここで証そうとしているようには思えないでしょうか?
そして、これは実に「そのとおりでありすぎる」ような気付き、精神の変容のプロセスを物語るものではないでしょうか?
全くもって、それは個人の力、知識、意志に因るものでなく"思いという山脈"を越えたところからもたらされるのです。(この書の原題は"ヒマラヤ山脈を越えて")
それにしてもベインさんは、その師からの啓発に富んだ言葉に接する度に何度も「私は今初めて気が付いた。実在の強大さに気が付いたのである...」といった感慨を繰り返しています。
「後編」においてもまだ繰り返していますが、余程物分かりが悪い人なのでしょうか...(笑)
いや...それは実在に触れるということは、正に「今の今である ...」ということを伝えようとしているのに違いないでしょう...。
(マクドナルド.ベイン著「解脱の真理」.霞ヶ関書房刊)
このブログでコンスタントに人気を集めているらしい記事は、スコットランド出身のヒーラー、霊媒マクドナルド.ベインの「心身の神癒」という書物の書評モドキのものです。
一般には、そんなに知られておらず、ごく一部の本しか紹介されていないにも拘わらず、この謎の著者には今もなお隠れた、熱烈な支持が集まっているようです。
「解脱の真理」は、著者がその人生の一大転機になったであろう、秘境ヒマラヤにおける"見える"あるいは"見えざる"導師、大師との交流、そこから数々の啓発に預かった模様を記したもので、こちらを前編とすれば、94年に出された「キリストのヨーガ」(出帆新社刊)はその後編に当たるもので、合わせて読まれることをオススメします。
私が"前編"にめぐりあったのは、昭和54年の夏頃。何度か触れているように、その年初めから私の心身にあのジンジンとした感覚が芽生え出したのですが、同時に宗教などで語られる神、霊的存在、霊界、幽界、前世...といった、何らの確証も無く、それを知ったからといって、何らの魂を揺さぶる高揚も、愛の実感ももたらさない言辞、やたらと相対観ばかりを強めるばかりの"ここにしかない教え"といったものに対し、にわかに疑問が生じてきたのでした。
そして"固定観念をいくら信じ込んでも、頭で分かったつもりになっても、ホントには何一つ理解などしていないし、むしろそれが開かれる通路を閉ざすことになるだけではないか..."という気付きが強くもたらされたのです。
そんな折、この本を手にとり、目次を見て「何々...秘法の伝授?、神秘の交霊会?"なんかなあ"...」というものは過ったものの、「実在は心の中で作りあげられるものではない。実在はそれ自らで実在するのだ。...君の心が何ものにも捉われず自由になった時初めてそれは出現する。...」といった、師の言葉の片鱗に触れ「全くそのとおりだi...そのとおりでありすぎるではないかi」と感じざるを得なくなったのでした。
それは、触れる度にもたげてくる、その言い知れぬ高揚感、そして理屈抜きにそこに惹き付けてやまないもの...こういうものがアリアリと実感されたからです。
ベイン師は、この秘境探検に赴く以前から、知らずにそれに預かっていたようですが、見えざる導きとはこのようなものなのでしょうか?
ただ、あまり本質的でないことですが、このストーリーには、"作り話ではないか?"という疑いがないわけではありません。(何らかのこの本で書かれているような神秘的邂逅というものがあったのは間違いないでしょうが...)
"見える"導師については、おそらく当地のラマ教の師家と思われ、この書でもその界隈には数々の迷信、妄信が取り巻いている様相が描かれていますが、果たしてそこにあんなにも普遍性に根差した教えを語るマスターが、ラマ僧の覆面をして"上手く"潜んでいたりなどするものでしょうか?
私の推測ですが、これはベイン師自らはその師性を隠匿し、その内なる普遍世界からの音信の数々の出所を数人の"見える、見えない導師"に帰しているように思われるのです。
これは「心身の神癒」で、別の形で霊現したキリストに帰していることと通じるものが伺えるでしょう。
序文で「私自らは何らの主張をも為すものではない...」と述べていることを著者自らここで証そうとしているようには思えないでしょうか?
そして、これは実に「そのとおりでありすぎる」ような気付き、精神の変容のプロセスを物語るものではないでしょうか?
全くもって、それは個人の力、知識、意志に因るものでなく"思いという山脈"を越えたところからもたらされるのです。(この書の原題は"ヒマラヤ山脈を越えて")
それにしてもベインさんは、その師からの啓発に富んだ言葉に接する度に何度も「私は今初めて気が付いた。実在の強大さに気が付いたのである...」といった感慨を繰り返しています。
「後編」においてもまだ繰り返していますが、余程物分かりが悪い人なのでしょうか...(笑)
いや...それは実在に触れるということは、正に「今の今である ...」ということを伝えようとしているのに違いないでしょう...。
私も随分と啓発されました。