人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りしかない?

2024-07-06 09:22:16 | 祈りと瞑想
“祈りと瞑想は、切り離されないもの“、というようなことは、ここで当初から言って来たことです。
しかし、その時はまだ、“祈りというものと、瞑想というものがあり、その二つには分けられないものがあり“...という風に、どこか二元的に捉えているところがありました。
しかししかし、今はもう、そこに全く二つは無い、という感じになってしまいました。
祈りと瞑想という言い方をするのであれば、もし、瞑想というものが、一定の座り方、呼吸法などのメソッドに則って修行法として行うものであるならば、私はそういう瞑想とは全く関わりが無いと言わねばなりません!
サマーディというか(それは現臨にある意識状態、現臨感覚と言ってもいいのですが)、瞑想状態というものがあります。
他の人のことは知らないですが、私はそういう意志想念から行う瞑想から、そのような状態に導かれたことはほとんど無いのです。
一般的には、そういう自力的なものを瞑想と捉えているのかもしれませんが、得てして、それによりかえって自我心を強めてゆくことにならないのでしょうか?
勿論、瞑想しようと思い立つことは、取っ掛かりとしてはありますよ。いや、ただ瞑想、祈り、神、聖霊...といった言葉を思い浮かべただけで、私はすぐに、自然に思いを超えたものに意識が向けられてしまうのです。
だから、そうなさしめるもの無しにそうなることはありません。こういうことを祈りと結びつけているのです。
祈りというのは、思い、為そうとする自分をそれに投げ出すこと...自分から開かれることでは無いのです。
自分は自分だけで成り立っているのではなく、自分を超えた場所を頂いてある。だから投げ出すことが出来る、開かれるということがあるのです。
もし、それで“そんなのは、瞑想じゃない!“という向きがあるのなら、私には、そういう祈り的なものしか無いとしか言いようがありません。
これは、あくまで私に即したことを書いているまでなのです!
瞑想修行に励むというのなら、気が済むまでなさったらいいのですよ!
え、暑くて瞑想修行どころじゃない?
ジッツにおツカレさんなことです。
じゃあ、無理しないで木陰で休んでたらいい...
いや、熱中症になるかもしれませんよ!
なったらなったで、もし、そこに自分の思いを超えたもの、見えない場所を感じたなら、何かが始まる...かもしれない?
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