人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈れない時こそ

2024-07-18 09:30:06 | 祈りと瞑想
当たり前のことながら、私はいつも、神に思いを向け、心安らかで居られる訳では無いのです。
心乱れ、むしゃくしゃすることだってあるのです。私は、どっから見ても普通の、一寸冴えない人間にすぎないのですから!
勿論、“これじゃあ、イカン!、神に思いを向け、祈らなければ!“、と思ったりもしますよ。で、“祈ったって、どうにもならんのじゃないか?“、と思ったりもします。
何を思ったって、何にも始まって来ないですよ、思ってるだけだったら!...
そして、何でもいいから、どうにもならなくてもいいから祈ってみる(最初はそんなんですよ!)、神に向けてみる...
すると...ウソのようにいつの間にか、そんな不調和な思いが晴れて来たりするのです。
こういうことはもう、しょっちゅうなのです。(まあ、しょっちゅう、むしゃくしゃしてるってことかもしれませんが...)
そのたびに、“ああ、私自身を取り戻した!“、という実感を覚えます。
お分かりのように、私にとって祈りとは、神に思いを向けることと同じなのです。とにかくどんな思いも神に投げ入れる...自分も投げ入れる!...祈ることは、そういう場所が出来ることなんです。
真面目な人は、“そんな神に顔向け出来ないような思いでは祈ることなんて出来ない!“、な~んて思うのかもしれませんが、それが根本的にズレた考え方なのです。
神はすべて見通し、すべてに通る!...何故自分を隠すことなど出来ようか!、顔向け出来ない、なんて何故向けようとしないのか?...バチが当たる?
当たったらいいではないか?...それは、神の実在を証明することになるではないか?
そいつが当たったら、多分、目が覚めずにおれないだろう!
神、真我につながるには、どうしたらいいのか?...いつも言うように、私は特定の方法に依拠したりしませんが、ただ、祈ることはあるのです。
私はそれを通常思われているような方法とは思っていません。それは、考えている私が行う何かだ、と思っていないからです。
祈りは、神に思いを向けること、本来の自分を取り戻すこと...不調和な状態に対する絶大なる対処法であるのは、言うまでもありません。
これは、私の悪しき心の状態から善なる方に変えようとする意志的努力によるものでも、何時間、何回祈るか、という自分の力で図るようなことでは全くありません。
そういうことでは、この消息のことは、絶対に分からないでしょう。
これは、私の思いを超えた、神的なハタラキによって成されることなのです。
例えば、よく知られる一定の座法、呼吸法などのメソッドを伴う瞑想などでは、先のように精神状態が不調和な時や、病床で苦しんでいる時などは、行うことが困難ですが、祈り、神に思いを向けることなら出来ます。そういう時こそ祈ってみる...いつの間にか、何か開かれて来る、心が安らかになって来る...
こういう、生きることが難しい時代だからこそ!
騙されたと思って!...自分はダメだ、世の中がダメだ、神も仏も無い、いいことなんて一つも無い...なんて思っているだけなら、祈ったらいいのです!
いや、この夏は熱中症との戦いが待っているではないか?
立ってても、歩いてても、寝てても、倒れてても...祈ることは出来ます。
私が祈らなくても、祈れなくても、一寸向ければ、神の方が通られる...

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神人のみ実在する | トップ | 段階を超えて »

コメントを投稿

祈りと瞑想」カテゴリの最新記事