人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

幸福であることは自然な状態

2025-02-02 06:41:41 | スピリチュアル
ラマナ.マハルシは、常々「幸福は、本来意識が真我にあることによる自然な状態である」、と説いておりました。
“これは、本当にそうだなあ!“、と感じざるを得ません。
自分自身であることは、幸福なことなのです。だから自分自身を生きていないことは、不幸なんだ。不幸になるような事態があろうとなかろうと、幸福が感じられないということは!...
それは、自分以外の何かになることじゃない!、今の自分が偽りの自分だから、真我の境地に到達しなければならない、ということじゃないのです。
自分自身の本来性に帰る、目覚めること...本来的なことは、自然にそのように導かれるということなのです。
多くの宗教やスピの修行者などは、真我というものをそのように、その自分が目指す先にあるものとして思い描いているようです。
そうでなく、その自分自身であることを受け入れることから開かれるもの。逆説的ですが、そこに真とか偽りというものは無いということでしょう。
しかし、何が真我か、ということに囚われ勝ちになる、考えている私からは、中々そういう状態に開かれないということも事実でしょう。
そこに、思いを超えたものに意識を向け、ゆだねるということがあるのです。
だから真我とは、何がそういうものなのか、と考えて得られたりするものではなく、思いを超えたものにより照らされ、映し出された、ありのままの自分ということなのでしょう。
実に、真我とその超越者、神的なものは切り離されないもの、一つのものである、ということもラマナはよく説いておりました。
だから神を意識していて、幸福でない訳が無いのです。
いつも言うようにそれは、そこに愛、平安、リアリティが感じられるということに他なりません。
祈り、瞑想していて楽しいですか、幸福ですか?
そうでない、苦行みたいなことを一生懸命やっている人は居ませんか?
「信仰して、祈っていて楽しくないんならそんなもの止めた方がいいです!」(小池辰雄)
私は、こういう風に導かれて来たのです。
勿論、いつもいつも幸福だった訳じゃないですよ!...悩み、苦しいことも沢山ありました。
だけど、それは本当に神、真我に意識が向けられていなかった、ということなのです。
“う~ん、向けるというより、自然に向いちゃうんだけどなあ!“
これは、自分で何をする、何を思うというより、そのように導くものがあるのです。
それは、神、真我と一つのものです。故に「神、真我、導師は同義である」とこれ又、ラマナが常々説いていたことです。
“何でこうなってしまうのか?“、と我ながら思うのですが、自然にそうなってしまうんだからしょうがない!
一つには、“そういうことをここでいつも書いているから“、ということは言えるでしょう。
いやあ...どうしても書かされているように感じてならないのですが...

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