わが国の神道は、仏教やキリスト教などの“高等宗教“からは、一段低い宗教のように見られているようです。
曰く、因習に囚われ、呪術だとかに頼ったり、迷信や俗信が付きまとい、原始的な有り様から脱してない...
確かに表面的に神道という形態を見れば、そのような傾向があるのも否定出来ないでしょう。
成長した高等宗教よりも、幼い段階にとどまっているようです。
幼い...そうですね、難しいキリスト教神学とか、仏教哲理のようなものは発達して来なかったのです。いや、そういうものは必要無かった、と言うべきでしょう?
それらがわが国の精神世界には根付くことは無かったのです。
神や霊魂などの実体が存在するかどうか、という議論は置いといて、単純に神を信仰するという心性があるのです。
勿論、それは、神を対象にして信じるということではあるのですが、自然とそのように赴かせるものがそこにあるのではないでしょうか?
神道という形を超えて、ずっと心性に息づいているものは、この幼い単純さなのでしょう。これは煩雑な神学、哲理に囚われることで失ってしまうものではありませんか?
縄文の昔からその根底にあるものは、名付けられないものだけど、私は強いて単純に“神の道“と呼びたいです。
神の道というのは、実はすべての宗教の根底に生きているものではないですか?(神道でよく言われる寛容性というのは、ここから来ているに違いありません)
難しい、押し付けがましい教えなどが無くとも、とにかく神の前には理屈抜きに、畏怖(恐れでは無い)の感情を呼び起こされ、意(威)を正さずにおれなくなるものがあります。
神はとにかく、実体があろうと無かろうと我々の思い、力を超えたものなのだから!...
こういう意識が自然と我々の内に刷り込まれていて、それが単純に、神を対象にして礼拝するという形として表れているのでしょう。
神の前には我々は、そのように赤き心に帰らざるを得なくなるのです。神に直ると言う。
そこに我々は、神直々の心を頂いているという思念がある。それを真我と言ってもいいでしょう。
神、真我に実体があるかどうかは言うまでもなく分かりません。
分からないけど、そのようなものは自然と感じられて来るのです。神を前にすれば!...
これは多く、対象的な神信仰、礼拝という形のことを言っているのですが、それは神的なものと意識的につながることを象徴、表徴しているのです。
普通はあまり意識的になることは無いでしょうが、いつ意識に深く神的なハタラキが浸透して、神の手に捉えられることが無いとも限りません。(それはまあ、“神がかかった!“というように捉えられるのでしょうが!)
表層の神道の形の奥に息づいているものは、こうした本来名付けられない、原初的な神の道であったのです。
表層の意識にとどまらず、より意識的になることで、諸々の夾雑物を超えて、神の道が顕わになるでしょう。
段々、神直々の...神が直に我々の意識に顕わになるのを身に覚えるのは、日本人として生まれた私だけでは無いでしょう?...
曰く、因習に囚われ、呪術だとかに頼ったり、迷信や俗信が付きまとい、原始的な有り様から脱してない...
確かに表面的に神道という形態を見れば、そのような傾向があるのも否定出来ないでしょう。
成長した高等宗教よりも、幼い段階にとどまっているようです。
幼い...そうですね、難しいキリスト教神学とか、仏教哲理のようなものは発達して来なかったのです。いや、そういうものは必要無かった、と言うべきでしょう?
それらがわが国の精神世界には根付くことは無かったのです。
神や霊魂などの実体が存在するかどうか、という議論は置いといて、単純に神を信仰するという心性があるのです。
勿論、それは、神を対象にして信じるということではあるのですが、自然とそのように赴かせるものがそこにあるのではないでしょうか?
神道という形を超えて、ずっと心性に息づいているものは、この幼い単純さなのでしょう。これは煩雑な神学、哲理に囚われることで失ってしまうものではありませんか?
縄文の昔からその根底にあるものは、名付けられないものだけど、私は強いて単純に“神の道“と呼びたいです。
神の道というのは、実はすべての宗教の根底に生きているものではないですか?(神道でよく言われる寛容性というのは、ここから来ているに違いありません)
難しい、押し付けがましい教えなどが無くとも、とにかく神の前には理屈抜きに、畏怖(恐れでは無い)の感情を呼び起こされ、意(威)を正さずにおれなくなるものがあります。
神はとにかく、実体があろうと無かろうと我々の思い、力を超えたものなのだから!...
こういう意識が自然と我々の内に刷り込まれていて、それが単純に、神を対象にして礼拝するという形として表れているのでしょう。
神の前には我々は、そのように赤き心に帰らざるを得なくなるのです。神に直ると言う。
そこに我々は、神直々の心を頂いているという思念がある。それを真我と言ってもいいでしょう。
神、真我に実体があるかどうかは言うまでもなく分かりません。
分からないけど、そのようなものは自然と感じられて来るのです。神を前にすれば!...
これは多く、対象的な神信仰、礼拝という形のことを言っているのですが、それは神的なものと意識的につながることを象徴、表徴しているのです。
普通はあまり意識的になることは無いでしょうが、いつ意識に深く神的なハタラキが浸透して、神の手に捉えられることが無いとも限りません。(それはまあ、“神がかかった!“というように捉えられるのでしょうが!)
表層の神道の形の奥に息づいているものは、こうした本来名付けられない、原初的な神の道であったのです。
表層の意識にとどまらず、より意識的になることで、諸々の夾雑物を超えて、神の道が顕わになるでしょう。
段々、神直々の...神が直に我々の意識に顕わになるのを身に覚えるのは、日本人として生まれた私だけでは無いでしょう?...
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