瞑想修行などでは、今でも例えば呼吸に意識を集中するとか、“集中しよう、しなきゃあ“、と自分が意思して集中するやり方が主流のようです。
私がいつも言っているものは、修行と結び付けられるものではないですが、自分の思いを超えた神的なものに意識を向けると、自ずから“意識は集中される“、ということなのですね。
何が違うかと言うと、思い、為そうとする自分が起点となり、主導となるか、神的なハタラキがそうなるかというところにあります。
勿論、取っ掛かりとして、“向けよう“と意識するというのはあるのですが、ほとんどそれは意識されることと区別されないくらい、直接的なものなのです。
直接的というのは、思い、為そうとする自分を超えて、その意図するもの、目的となるものと一つになるということで...つまりは思いを超えてしまった(そのための瞑想修行なのでは?)、ということな訳で...!!!
我ながら驚くべきことを言っているようなのであります!
そして又瞑想などによって、幸福、平安に与ろうとしているのですよね?
え~とねえ...もう与っちゃってますよ!...いや、もう重ね重ね驚いちゃいますよ!
いつもいつも、こういうことを平然と書いていられるのは、自分がどうこうやる何かによってそうなるものじゃないからなのです。
意識を向ける、意識的になることの大切さをここで何度も言っています。
しかし、改めて思うに、当たり前のことかもしれませんが、思い、為そうとする自分からは中々そうなれないのですね。
そうなっちゃうのが当たり前みたいに感じているから気が付かないのでしょう?
要するに、私が意識を向ける、意識的になることに先立つものがあるということなのです。
そうでなきゃ、そもそも向けられません!
だから、いつも言っているか、言わされているのです。幸福、平安に与ることに特別な方法など無いけれど、どうしても一つ祈るということはあるんだ、と!...
祈るということは、自分を超えたものあっての私、ということにいつも気付いていることでもあります。
そうでなきゃ、私など当たり前でない当たり前のことの上に胡坐をかいたりして、ロクな人生を歩んでないと思いますよ!(これはですね、多分思っているほど幸福、平安に感じられなくなるといということなんですよ!)
そうなのです!...意識的になることと祈りとは切り離されないものなのです。
今まで、ただ祈りとは漠然と神仏を対象にして、願いごとをすることだと思っていたことにもっと意識を向けてみるのです。
自分にとって、神仏とは、自分を超えたものとは何か?...考えるのでなしに意識を向けてみる...
やっぱり、これは祈ることと一つにならざるを得ません!...
私がいつも言っているものは、修行と結び付けられるものではないですが、自分の思いを超えた神的なものに意識を向けると、自ずから“意識は集中される“、ということなのですね。
何が違うかと言うと、思い、為そうとする自分が起点となり、主導となるか、神的なハタラキがそうなるかというところにあります。
勿論、取っ掛かりとして、“向けよう“と意識するというのはあるのですが、ほとんどそれは意識されることと区別されないくらい、直接的なものなのです。
直接的というのは、思い、為そうとする自分を超えて、その意図するもの、目的となるものと一つになるということで...つまりは思いを超えてしまった(そのための瞑想修行なのでは?)、ということな訳で...!!!
我ながら驚くべきことを言っているようなのであります!
そして又瞑想などによって、幸福、平安に与ろうとしているのですよね?
え~とねえ...もう与っちゃってますよ!...いや、もう重ね重ね驚いちゃいますよ!
いつもいつも、こういうことを平然と書いていられるのは、自分がどうこうやる何かによってそうなるものじゃないからなのです。
意識を向ける、意識的になることの大切さをここで何度も言っています。
しかし、改めて思うに、当たり前のことかもしれませんが、思い、為そうとする自分からは中々そうなれないのですね。
そうなっちゃうのが当たり前みたいに感じているから気が付かないのでしょう?
要するに、私が意識を向ける、意識的になることに先立つものがあるということなのです。
そうでなきゃ、そもそも向けられません!
だから、いつも言っているか、言わされているのです。幸福、平安に与ることに特別な方法など無いけれど、どうしても一つ祈るということはあるんだ、と!...
祈るということは、自分を超えたものあっての私、ということにいつも気付いていることでもあります。
そうでなきゃ、私など当たり前でない当たり前のことの上に胡坐をかいたりして、ロクな人生を歩んでないと思いますよ!(これはですね、多分思っているほど幸福、平安に感じられなくなるといということなんですよ!)
そうなのです!...意識的になることと祈りとは切り離されないものなのです。
今まで、ただ祈りとは漠然と神仏を対象にして、願いごとをすることだと思っていたことにもっと意識を向けてみるのです。
自分にとって、神仏とは、自分を超えたものとは何か?...考えるのでなしに意識を向けてみる...
やっぱり、これは祈ることと一つにならざるを得ません!...
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