人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己認識と神認識

2024-03-02 09:52:09 | 祈りと瞑想
意識的であることは、自分自身に意識が向けられていること、自己認識されていることと言ってもいいでしょう。
意識的になっている自分は、考えている自分が超えられ、より本来の自分に戻っている状態なのです。
しかしいつも言うように、考えている自分からは、中々自己を認識、観察することは出来ません。だから、神に意識を向ければいいのです。といっても、それも掴みようの無い話になるのですが...
神は実在するのか、異なる宗教で説かれている神はどう違うのか、とか返って考えごとにハマリそうにもなります。常に信仰的で神に祈ることに親しんでいる人は別として...
五井先生は随所で、神といっても掴めないから祈ることを勧めていました。その場合、多くは“世界平和の祈り“だったのですが、特定の祈りに囚われる必要は無いでしょう。
とにかく、ここで問題にしていることは、思いを超えること、そしてそれは、何によって超えられるのか、ということなのです。(ああ...こうして書いているだけで、アタシャ、もう!...いつも突如論理が飛躍して済みません!)
祈りに親しんでいる人は、もっとそのことを意識してみて下さい。
自分の思い、力で自分をどうこうしようとしている人は、何で自分で自分を超えられないのか、考えるので無しに、意識してみて下さい。
その自己の限界を自覚することが極めて重要なことなのです。これがブッダが説いていた、“断念“ということではありませんか?(自分で思いを断つのでなく、断たしめるものがあるということです)
神という形而上的実体を信じる必要も無しに、そうした観念ごとを抜きにした、自分を超えたものが意識されてこないでしょうか?
それを私は仮に神的なものと言っているのです。
この意味で神に意識を向けると言う。実体は分からなくても向けられるはずですよ。
超えたもの、あるいは超えられたという感覚に向けられるのではないですか?
“超えられた“自分。...そこには、考えている自分からは容易に捉えることの出来ない、何にも思考イメージで色付けされていない、“私は在る“、という感覚があります。
つまり、自分を超えたものと超えられた自分は、一つのものと言うことなのです。
自己認識と神認識は一つ。神と真我は一つ。
考えている自分からはそうならない!...だから、祈りが大切なのだし、神のことに触れない訳には行かないものがあるのです。
それは、祈ることで、そのものと一つになろう、なさしめようと促すものが感じられてくるからに他なりません。
我々は、本来から思いを超えたものと共にあるものなのだから!...

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