「今後私は目に見えるもの、わが存在にそなわるものなら、どんなものでも礼賛し、歌い、笑い、何一つ否定はすまい」
(W.ホイットマンー19世紀米詩人ー「すべては真実」)
人が所謂覚醒体験などで垣間見る、普遍調和といった有り様...このことは、この相克、不調和に満ちた二元的現実世界に我々が生き、経験してきているからこそ実感出来るのです。
もっと言えば、その彼の世界の平安に預かれるのは、この相対的現実の真っ只中だからこそでしょう。
それはこの現実と切り離されては起こり得ないのです。
その何らの障りなき自由というものの実感とは、この現実生活でのあらゆるがんじがらめの手かせ、足かせを通して知ることが出来るのです。
自分の思いの通りに行かない、不自由極まりないお荷物となるものは、この物質的肉体でしょうか。
悟りの道というものが、物質的なものを捨て去り、ますます霊化を促進して行くものだとすれば、それは淘汰されねばならないものでしょうか?
しかし、この物質的肉体というものがなければ、おそらくあのアリアリとした、"身"も震えるような実感というものには預かれないだろうと思います。
その実感というのは、精神も肉体も共々のトータルな、"全ての私"において起こるものだからです。
肉体は物質的なものとされているようですが、実はまだ解明されてない部分が沢山あるのです。否、物質的なことですらそうなのです。
何しろ、自分自身のことも分かってないのですから...
宗教、スピ界の一部には物質、肉体的なものーその集積たるこの現実世界ーを忌み嫌い、軽んじ、ここを飛ばして霊的、精神的のものに馳せて行ってしまう傾向が見られますが、その意識の根底に横たわっているものは、自己を信頼し、愛することの欠如でしょう。
自分自身という現実に意識が向かうことがなければ、それはどこまでも地上から浮いた現実遊離した観念の世界に過ぎないのです。
肉体のことも、この世界のことも、自分のことも一切がフタ開けしないままで、一体どこに行こうというのでしょうか?
そこには、そもそもこの現実世界に肉体、個性を持って生まれ出てきたという大前提が蔑ろにされ、自分をそうあら然めたもの、持ち前のものへの不信があります。
"ここ"から離れて"あちら"は開かれないのです。隠れていたものは、必ず顕わとなる...
"人生の裏側と表側"とは全く合わせ鏡のようなものと言わざるを得ません。
次元上昇のようなことがあるとすれば、物質的段階から霊的段階への移行といったものでなく、霊と肉、自と他、普遍と個、善と悪...我々の全てもののフタ開け、顕現となるでしょう。
それまでこの世界のある部分しか見てなかったものが、隠れた領域に光が当たり、全的なものが日の目を見るということです。
この世界の他に別のアセンションした世界がある訳では無いのです。
この自分の他に別の真我というものがある訳でも無いのです。
この現実の他にしてリアリティというものは、どこにも開かれる事は無いのです。
ただ、"この世界も自分自身も思われたままのものでは無い"、ということがあるばかりでしょう。
そこで目覚めた眼に映し出されるものは、この世、この自分と思われたもの、持ち前のものの聖化でしょう。
(W.ホイットマンー19世紀米詩人ー「すべては真実」)
人が所謂覚醒体験などで垣間見る、普遍調和といった有り様...このことは、この相克、不調和に満ちた二元的現実世界に我々が生き、経験してきているからこそ実感出来るのです。
もっと言えば、その彼の世界の平安に預かれるのは、この相対的現実の真っ只中だからこそでしょう。
それはこの現実と切り離されては起こり得ないのです。
その何らの障りなき自由というものの実感とは、この現実生活でのあらゆるがんじがらめの手かせ、足かせを通して知ることが出来るのです。
自分の思いの通りに行かない、不自由極まりないお荷物となるものは、この物質的肉体でしょうか。
悟りの道というものが、物質的なものを捨て去り、ますます霊化を促進して行くものだとすれば、それは淘汰されねばならないものでしょうか?
しかし、この物質的肉体というものがなければ、おそらくあのアリアリとした、"身"も震えるような実感というものには預かれないだろうと思います。
その実感というのは、精神も肉体も共々のトータルな、"全ての私"において起こるものだからです。
肉体は物質的なものとされているようですが、実はまだ解明されてない部分が沢山あるのです。否、物質的なことですらそうなのです。
何しろ、自分自身のことも分かってないのですから...
宗教、スピ界の一部には物質、肉体的なものーその集積たるこの現実世界ーを忌み嫌い、軽んじ、ここを飛ばして霊的、精神的のものに馳せて行ってしまう傾向が見られますが、その意識の根底に横たわっているものは、自己を信頼し、愛することの欠如でしょう。
自分自身という現実に意識が向かうことがなければ、それはどこまでも地上から浮いた現実遊離した観念の世界に過ぎないのです。
肉体のことも、この世界のことも、自分のことも一切がフタ開けしないままで、一体どこに行こうというのでしょうか?
そこには、そもそもこの現実世界に肉体、個性を持って生まれ出てきたという大前提が蔑ろにされ、自分をそうあら然めたもの、持ち前のものへの不信があります。
"ここ"から離れて"あちら"は開かれないのです。隠れていたものは、必ず顕わとなる...
"人生の裏側と表側"とは全く合わせ鏡のようなものと言わざるを得ません。
次元上昇のようなことがあるとすれば、物質的段階から霊的段階への移行といったものでなく、霊と肉、自と他、普遍と個、善と悪...我々の全てもののフタ開け、顕現となるでしょう。
それまでこの世界のある部分しか見てなかったものが、隠れた領域に光が当たり、全的なものが日の目を見るということです。
この世界の他に別のアセンションした世界がある訳では無いのです。
この自分の他に別の真我というものがある訳でも無いのです。
この現実の他にしてリアリティというものは、どこにも開かれる事は無いのです。
ただ、"この世界も自分自身も思われたままのものでは無い"、ということがあるばかりでしょう。
そこで目覚めた眼に映し出されるものは、この世、この自分と思われたもの、持ち前のものの聖化でしょう。
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