人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現実はどうなのか?

2023-09-25 09:53:55 | 求道、探究
「哲学が我々にいかにくわしく普遍的理性の存在を教えても、それが私の理性とどんな関係にあるのか教えてくれなければ、何の慰めにもならない。...彼らの主張する諸学説は、生きた、人格としての人間にどのような恩寵と光明を与えてくれるのか?...」
(ベルジャーエフ「人間の運命」

ベルジャーエフは、同時代の哲学者たちにこのような不満をぶつけていたのですが、ことは恩寵と光明ということになれば、哲学を含めた精神的な道全般の問題ということになるでしょう。
そう、我々が現実に幸福、光に与るかどうかが問題なのです。
それに答えられない、如何なる高踏な教説、方法論があろうとも、所詮はただの能書きに過ぎないと言わねばならないでしょう。(勿論、これは主体となる自己の在り方、向き合い方とも深く関わるのは言うまもないですが...)
だから私は、”この教えを信じたら、この方法に従えば、必ず幸福を得られる”、という文句など全く信用していないのです!
ものは試しということもあるかもしれませんが、私はほとんどそういう風に試みた、ということがありません。
本当に私が幸福に導かれる道があるのなら、最初からその道に赴いているはずです。
これは、どういうことを言っているのかというと...最初から意識がそっちに向いちゃうからそうならざるを得ない、ということ...言い換えれば、現実にそっちに意識が向くということなのです。
向かないものは、いつまでも自分と切り離されて、向こうに置かれたまま、思い描いていて、分かった、為したつもりになるだけです。
だけど、能書きにひっかかる人というのは、得てして、”これをし続けていたら、そのうちに求めているものを得られるだろう...”という思い込みから抜けられないようです。
その場合でも、そうし続けていて、かくなる未来でない、今の自分が幸福に感じているかどうかがポイントとなるでしょう。(そして、未来に囚われていると、得てして気付かないもので、いつも”そのうち、そのうち”で、一日の、否人生の日が暮れるのです)
現実にどう感じているか、ということは、今の自分の意識がどっちを向いているか、どうあるのか、ということに他ならないのです。
意識が向くとか、動くということは、そこにそういうハタラキがあるということで、これは、意識するからはたらく、はたらくから意識されるというように、切り離せないものと言えます。
私は”こうすれば!”、という特別な方法には意識がどうしても向かわなかったのですが、これは現臨感覚に目覚めた頃と対応しているかと思います。
意識はそっちに留められていたのです。
これは、今まで自覚意識(意識のことになるとどうしても表現がややこしくなります)は無かったのですが...私の意識は大体において、(前々回に書いた)”私、神(絶対的なもの)、ハタラキ”、の三位一体の中にあった、と言うことが出来るでしょう。
それは、現臨の中にあることと言い換えてもいいのです。
それが、私、神的なものを現実在らしめるものに他ならないのだから...
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