人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

何やってんだ!

2024-12-03 10:14:51 | 求道、探究
私がいつもキツイ言葉を浴びせている、反面教師のTという画伯とは、同じ頃(40数年前)共に五井先生と縁が出来、10年くらい前には、彼が主宰していた五井先生関係の小さな集まりにも参加していたことなど、ちょっとした因縁があるのです。
そうでない人には、そんな“因縁つける“ことなど無闇に言う訳ないですよ。
そのブログなどをチョイチョイ読むにつけ、これがもう本当に、“ああ、こうなっちまったら人生オシマイだなあ、こうならないようにしないと!“と襟を引き締める思いにさせられる...な~んて言ってて、人生先はもう長くない!...それもそうだが、これは後進のためにも、という気持ちから書かされているようなのです。
彼は当然のことながら、私と同様、何かしら五井先生に共鳴するものを感じて、信奉するようになったのでしょう。
しかし、いつからか、五井先生の教えに物足りないものを感じてか(自力門、他力門という言い方をすれば)、他力の道を説いていた、その教えとは相容れない不食の実践とか自力作善、雑行をやり出すようなのです。
この物足りなさというものが、具体的にどういうものかは分からないですが、彼は、その祈りのこと、神にゆだねることに対し、本当に得心するまで求めなかった、ということなんでしょうか?
その素晴らしさを知らないまま、雑行をやり出したというのか?
だとしたら、何とも生半可、中途半端という他ありません。それじゃ何をやってんのか分からないですよ。(五井先生なら絶対に“中途半端ならやめなさい!“、と言いますよ!)
私は自分自身の経験から、自分の思い、力からは霊性の道は開かれない、と思っていますが、だからと言って、その道を通して自力の限界を知ることもあるのだし、自力の道を頭から否定するつもりは無いのです。
それはしかし、最初から自力修行に縁のある者に当てはまることで、要はそれに徹したらいいということなのであり、この他力、自力どっちつかずの状態は、二心に分裂するだけで、何にもならない、という他ありません。“あ~、いやだ、いやだ、思うだけで分裂しそう!、それで全託の道など開かれる訳無いだろう!“
それとも、その物足りなさの意味するものは、五井先生の教えには、例えば霊界の種々相のこととか、人類の普通の歴史では知り得ない、アカシックな超歴史とかのことがあまり語られないということなのでしょうか?
だから、五井先生の影響のありそうな宇宙全○の教えにハマり出すのでしょうか?
そんな表層的な、ホントかどうかも分からない、頭だけの知識など知って何になるのか?!
私は、消えてゆく姿の教えのことを得心して理解したことは無いけど、そんなものは、消えてゆく姿だ、ということくらいは分かります。
五井先生の教えの主眼は、“囚われない“ということにあったのではないか?
にも拘わらずこの御仁、近未来の予言、霊界の段階的種々相、陰謀論などに次々と囚われ続けているのです。一体何が消えてゆく姿なのでしょうか?
近未来、人類は三分の一か二かに減るのだと信じているらしい?
一体、何のための“世界平和の祈り“なんでしょうか?
つまり、一事が万事のように、分裂していて何やってんだか分からないのです。何のための統一行だか分からないではないか!
ここに感じられるものは、表層に次々に落ち着きなく、馳せてゆく、現れては消えてゆく思いばかり...どうも、この御仁、じっと一つのことを深く、得心するまで内省してゆくような心性に欠けているようです。
いやいや、最初には何かに共鳴するものがあったのでは無かったのか?
素晴らしい何かを感じたのでは...それをもっと、深めてゆきたいという気持ちは無かったのか?
それとも、それは?...何が消えてゆく姿で、何が“ここに在る“のだろうか?
人生はもう長くない!...気付くのはもう遅いのだろうか?
いや、遅すぎるということは無いだろう...“ここに在る“のだから!
いつも何だか他人事でないようなものを感じて、要らんこと書かされているようです...

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