前回の続きのようなことですが、悟りというもののイメージーそれは実体などあるものでなく、まさしくイメージしか無いものなのかもしれませんーとして、眩いばかりの、ともすればその場かぎりのものになり勝ちな覚醒、一瞥体験といったものに留まるものでなく、常住そんな境地に居るようなものかな、というものは感じています。
これは宗教的な言い方をすれば常に神的なものと一つになっているようなことでしょう。
こうなると、悟ったとか目覚めたとかいうことはどうでも良くなってきそうです。
そして、又所謂"悟った人"に付いて回るイメージとして"自我、エゴが無い"というものがあります。
しかし、これは現実に則して考えてみればやはりイメージでしかないということが感じられます。
そんな人間この世で生きていける訳ないでしょ。まるで植物人間じゃありませんかi
それを"自分は居ない"とか何で真に受けられちゃうんでしょうかね?
自我から自由になる、その思いのガンジガラメから解放されている、ということは確かにあるでしょうが、それは無くなるという意味じゃないのです。
これは現世的な生活を営みつつ、超現世的なものに根ざして生きることを示唆しているのでしょう。
人生の表側、裏側共々が人の生なのです。これについて小池先生が語っていた「私の生き方はこの相対的現実にあって、絶対的なものを戴いているようなもの」という言葉に端的に言い表されています。
これは何故可能なのかと言えば、神的なもの、現臨に与ることによると言っていいでしょう。
そもそもがそれが表側と裏側と橋渡しなのですから...天と地との柱であり、神と人間の交わりなのです。
個が消えて全体があるのでも、その逆でもなく、"全個"的なものがあるばかりという感じです。
ベルジャーエフは「神が居て、人間が居るのでなく、神人が居るばかりである」と言っています。
この事を目の当たりにした時、私はその圧倒的な事態に目が眩んだのか、その体験そのものに囚われてしまったのでした。
そして、現世意識を取り戻しつつあった時、あの声なき声を聞いたのです。
「私につながっていなさい」
それは常に私の心根に刻まれていて、ぬぐい去ることが出来ないものですが、ある哀願のようなものが伝わってきました。おそらく私がそのつながりのことを蔑ろにしてしまうことを見込んでいたようにも感じました。
そしてその後実際に蔑ろにしていまうと...まるでツキに見放されたようなことが相次ぎ、ズルズルと思考のガンジガラメ地獄に嵌まって行くのでした。
それからいくつかの変遷を経て、ジンジンとあの感覚が身に覚えるように甦ってきたのは、あの声なき言葉の響きと共にあったのです。
単なる思いの記憶でない、身に覚えているものこそは常住のものです。
そしてあの一回性の体験と思われたものも、そうではなくなってしまいました。
今もなお、こうしてそこから現在進行形で気付き、学びを受けて表すことが出来るのです。それはこの常住のものを通じて可能なのです。
私は悟った人間のフリをしようと思ったこともありますが、正直ポンコツ人生だろうと、何だろうとどっちでもよくなりました。
ほんの僅かでもいい、願わくば寝ても覚めてもでありたいとは思いますが...覚えていたらいいのです。
あの響きを...「私につながっていなさい」
これは宗教的な言い方をすれば常に神的なものと一つになっているようなことでしょう。
こうなると、悟ったとか目覚めたとかいうことはどうでも良くなってきそうです。
そして、又所謂"悟った人"に付いて回るイメージとして"自我、エゴが無い"というものがあります。
しかし、これは現実に則して考えてみればやはりイメージでしかないということが感じられます。
そんな人間この世で生きていける訳ないでしょ。まるで植物人間じゃありませんかi
それを"自分は居ない"とか何で真に受けられちゃうんでしょうかね?
自我から自由になる、その思いのガンジガラメから解放されている、ということは確かにあるでしょうが、それは無くなるという意味じゃないのです。
これは現世的な生活を営みつつ、超現世的なものに根ざして生きることを示唆しているのでしょう。
人生の表側、裏側共々が人の生なのです。これについて小池先生が語っていた「私の生き方はこの相対的現実にあって、絶対的なものを戴いているようなもの」という言葉に端的に言い表されています。
これは何故可能なのかと言えば、神的なもの、現臨に与ることによると言っていいでしょう。
そもそもがそれが表側と裏側と橋渡しなのですから...天と地との柱であり、神と人間の交わりなのです。
個が消えて全体があるのでも、その逆でもなく、"全個"的なものがあるばかりという感じです。
ベルジャーエフは「神が居て、人間が居るのでなく、神人が居るばかりである」と言っています。
この事を目の当たりにした時、私はその圧倒的な事態に目が眩んだのか、その体験そのものに囚われてしまったのでした。
そして、現世意識を取り戻しつつあった時、あの声なき声を聞いたのです。
「私につながっていなさい」
それは常に私の心根に刻まれていて、ぬぐい去ることが出来ないものですが、ある哀願のようなものが伝わってきました。おそらく私がそのつながりのことを蔑ろにしてしまうことを見込んでいたようにも感じました。
そしてその後実際に蔑ろにしていまうと...まるでツキに見放されたようなことが相次ぎ、ズルズルと思考のガンジガラメ地獄に嵌まって行くのでした。
それからいくつかの変遷を経て、ジンジンとあの感覚が身に覚えるように甦ってきたのは、あの声なき言葉の響きと共にあったのです。
単なる思いの記憶でない、身に覚えているものこそは常住のものです。
そしてあの一回性の体験と思われたものも、そうではなくなってしまいました。
今もなお、こうしてそこから現在進行形で気付き、学びを受けて表すことが出来るのです。それはこの常住のものを通じて可能なのです。
私は悟った人間のフリをしようと思ったこともありますが、正直ポンコツ人生だろうと、何だろうとどっちでもよくなりました。
ほんの僅かでもいい、願わくば寝ても覚めてもでありたいとは思いますが...覚えていたらいいのです。
あの響きを...「私につながっていなさい」
・・・同感です。普遍なるものに私も生かされています。それは言葉にならないのだけど、いつも在りますよね?・・・それと私がどんな人間性で、どんな人生を歩むかは、別次元の問題だと思ってます。
小池先生・・・って住職の小池龍之介氏のこと?
私もあの方の教説?って、好きです。
「人生というジェットコースターから降りる、乗るを繰り返しています。。。」って、書いてました。
・・・同感です。普遍なるものに私も生かされています。それは言葉にならないのだけど、いつも在りますよね?・・・それと私がどんな人間性で、どんな人生を歩むかは、別次元の問題だと思ってます。
小池先生・・・って住職の小池龍之介氏のこと?
私もあの方の教説?って、好きです。
「人生というジェットコースターから降りる、乗るを繰り返しています。。。」って、書いてました。
キリスト教の無教会の出身で、使徒時代の福音の追及をされていた方です。あまり世間の馴染みはないですが、初対面の時、私にはキョーレツな印象を持ちました。
深谷さんと言う女性の宣教師のサイトに小池辰雄先生の
名前が出ておりました
彼女は「聖霊派」と言うのか、実際に異言を受けるグループを経ておられる様です
私が小池先生と初めて会ったのが、そりゃ異言続出のスゴい集会で、これをどう受け止めていいのかサッパリ理解出来なくなった思い出があります。
まさか日本のキリスト教世界で、そんな集会が存在してたとは驚きです
深谷さんの話では、保守本流派?から白眼視され、オカルトまがいだとか悪霊だとか言われたそうですよ
小池先生は独協大学や明治学院大学で教鞭を取られていたそうですね
日本の学校もなかなか度量が有るので二度驚きです
お袋が認知症悪くして、アタクシは監視で家に軟禁状態が続いてヘタレて来てんですわw
誰かに何か書かなきゃプッツン行きそうで、アアタに擦り付ける感じ いや御迷惑お掛けします
この深谷さんは本物のガリレオじゃないですかねえ?
子供時代からキリスト教に馴染み、神秘体験と呼べるものも受けられ、異言で祈り、障害児施設で働き、難しい神学を大学で講義し、悪魔祓いも出来る ふうー
小池先生の孫弟子的な人なんですが、生き様が凄い徹底して溜息が出ますわw
昔、自分も雑談中、他愛の無い普通の言葉が本体?みたいなのと繋がった感覚が発生して、下腹部から怒涛の様な至福感が頭まで突き抜けて、愛に目覚めたと思った時期が有りました とめど無い至福感で恍惚としつつ、両眼は冴えて視界は広く、他者や世界を愛おしく感ずる思いで満たされておりました
手をかざすと腹痛が消えたり、本を開かずとも内容の傾向が察知出来たり、妙な能力が出て来た
部屋で寝てると天井の方から自分の声で「キリストの為に生きよ」と響いて来ました
ところが本性が与太のポンコツなので、「愛の実践」と
称して遊郭に通い出し、瞬く間に至福感は吹っ飛び、不思議な能力も消えて逆に病気になりましたw
博打に嵌って、ふと気が付くと西成の浮浪者街で寝泊りして、パジャマに革靴のまま電車に乗ってました
M川さんに天下茶屋の喫茶店で「アンタ何時になったら目が覚めるんや、破滅人間、大人になれよ」と怒鳴られたのを覚えております
まあブログ主さんはブレないバランス感覚が有って、
これはもう素質も有るけど謙虚で図に乗らないのが御加護を受ける要因でしょう