大村大次郎著「ブッダはダメ人間だった」(ビジネス社)
普段、あまり新刊は買わないのですが、タイトルが目に留まり、ページをめくると笑いが込み上げてきてつい買ってしまいました。
ブッダと言えば、いうまでもなく仏教という代表的宗教の開祖、覚者様の代名詞とも言えるでしょう。
悟りという言葉も多くここから派生しました。それはたゆまぬ修業を経て至る境地なのだとか...
しかーし...「(ブッダは)根性がなかったから悟りを開いた」(くーっ...いいi)
「くれるものはなんでももらう~肉食もOK~」
「売春婦も弟子にしていた」...
この著を手にしたならば、それらが如何に先入観、固定観念に染められたものだったか、ということを"悟らされる"ことでしょう。
ここでは、主に最古の仏典とされる「スッタニパータ」に焦点をあてて、ブッダの真実に迫ろうとしているのですが、私は既に二年ほど前、毎田周一先生の著書(「釈尊にまのあたり」など)に触れ、ブッダにまつわる長年の覆いが開かれた思いにさせられていたのです。
私自身が長い間先の先入観に縛られていたクチだったのです。
仏道と言えば、厳しい修業に明け暮れて悟りを目指すというイメージ...仏教の教師と言えば、感情を押し殺し、超然として悟り済ました人間のイメージなどがどうしても拭い去らなかったのです。
しかし、こうした仏教につきまとう"苦行、克己"といった、イメージは、多くバラモン(ヒンドゥー)教やジャイナ教からもたらされたものであることは、この著でも、専門家諸氏でも指摘されています。この原始経典からしてが、すでにそれらの教えが混入しているらしいのです。何と言ってもブッダ在世時のインド社会は、バラモン教が我が物顔で教権を支配していたのです。
そこで著者は、「スッタニパータ」の特に比較的先の混入の跡が見られない第4、5章を繙いてブッダの真実に触れて欲しいと促しているのです。
その主眼となるのは「固着した思いから離れること」だった...それも人にも自分にも優しいとても現実に即したものだった...
難しい修業も、前世のカルマとか死後の世界とか考えても分からない、妄想と結びつくことなど何もありません。
それは所謂悟りとは何の関係もないことでしょうか? いや、このことと離れて一体どこに悟りがあろう...ブッダとはこのことに目覚めている人のことでしょう。
ところで、この原始のブッダの言説に従えば、本当にありのままのブッダをまのあたりに出来るか、と言ったら...そうつあ...分かりませんi
何しろ、三千年以上も昔の言葉なんですよ。これ自体がもう驚くべきことで、これはブッダの真実に迫る一つのアプローチにはなるに違いないでしょう。
しかし、本当の仏教、ブッダの教えにもこだわる必要は無いでしょう。ブッダは遺訓のように「自己、法を灯、拠り所としなさい」(自灯明、法灯明)という言葉を残しています。
著者は「自分のことは自分で考える」と、普通に自立心ということを強調していますが、何故か"法"については触れてません。まあ、分からないものですからね。
私はこの著を読んでピンときました。推測ですが、これはバラモンから借りた言葉では無かったでしょうか?
人が依拠し、守るべき法則のようなもの...漢訳で法とされている意味がなんとなく分かりました。
でも、本当にブッダが伝えようとしたものは、そういうものであって、そういうものではなかった、と思われます。
我々の残されたギリギリの最後的状況...この世の如何なる宗教、思想...依拠する道が、すべての寄るべが失われてしまった時、何が最後の拠り所となるのか...私はブッダのこの言葉は、その時のことを想定して語られたものと思っています。
守るべき法則のようなこちらが構えて、処していかなければならないものが、ギリギリの場で一体何になるでしょうか?
これは苦行や法の遵守に縛られていたバラモンには理解し難い、恩寵のハタラキ的なものではないでしょうか?
このことに着目したのは、玉城康四郎先生でしたが、このことを欠いて、そも"トラワレからの解放"も覚束ないでしょう。
自分からは固着した思いから離れられないものです。
それは又自己を超えたものであって、自己から離れたものではありません。
自己と別の何物があって、それに則るという二段構えが無いのです。
このことは、あらゆる宗教を超え通底していることでしょう。そう、それは正しく宗教という壁を超えたものですi
三千年という時も超えて...今日我々は一体何を拠り所にして生きたらいいのか?
究極の自称覚者ならぬ、究極のダメ人間ーそれはあなたや私かも分からないーに聞くべしi
普段、あまり新刊は買わないのですが、タイトルが目に留まり、ページをめくると笑いが込み上げてきてつい買ってしまいました。
ブッダと言えば、いうまでもなく仏教という代表的宗教の開祖、覚者様の代名詞とも言えるでしょう。
悟りという言葉も多くここから派生しました。それはたゆまぬ修業を経て至る境地なのだとか...
しかーし...「(ブッダは)根性がなかったから悟りを開いた」(くーっ...いいi)
「くれるものはなんでももらう~肉食もOK~」
「売春婦も弟子にしていた」...
この著を手にしたならば、それらが如何に先入観、固定観念に染められたものだったか、ということを"悟らされる"ことでしょう。
ここでは、主に最古の仏典とされる「スッタニパータ」に焦点をあてて、ブッダの真実に迫ろうとしているのですが、私は既に二年ほど前、毎田周一先生の著書(「釈尊にまのあたり」など)に触れ、ブッダにまつわる長年の覆いが開かれた思いにさせられていたのです。
私自身が長い間先の先入観に縛られていたクチだったのです。
仏道と言えば、厳しい修業に明け暮れて悟りを目指すというイメージ...仏教の教師と言えば、感情を押し殺し、超然として悟り済ました人間のイメージなどがどうしても拭い去らなかったのです。
しかし、こうした仏教につきまとう"苦行、克己"といった、イメージは、多くバラモン(ヒンドゥー)教やジャイナ教からもたらされたものであることは、この著でも、専門家諸氏でも指摘されています。この原始経典からしてが、すでにそれらの教えが混入しているらしいのです。何と言ってもブッダ在世時のインド社会は、バラモン教が我が物顔で教権を支配していたのです。
そこで著者は、「スッタニパータ」の特に比較的先の混入の跡が見られない第4、5章を繙いてブッダの真実に触れて欲しいと促しているのです。
その主眼となるのは「固着した思いから離れること」だった...それも人にも自分にも優しいとても現実に即したものだった...
難しい修業も、前世のカルマとか死後の世界とか考えても分からない、妄想と結びつくことなど何もありません。
それは所謂悟りとは何の関係もないことでしょうか? いや、このことと離れて一体どこに悟りがあろう...ブッダとはこのことに目覚めている人のことでしょう。
ところで、この原始のブッダの言説に従えば、本当にありのままのブッダをまのあたりに出来るか、と言ったら...そうつあ...分かりませんi
何しろ、三千年以上も昔の言葉なんですよ。これ自体がもう驚くべきことで、これはブッダの真実に迫る一つのアプローチにはなるに違いないでしょう。
しかし、本当の仏教、ブッダの教えにもこだわる必要は無いでしょう。ブッダは遺訓のように「自己、法を灯、拠り所としなさい」(自灯明、法灯明)という言葉を残しています。
著者は「自分のことは自分で考える」と、普通に自立心ということを強調していますが、何故か"法"については触れてません。まあ、分からないものですからね。
私はこの著を読んでピンときました。推測ですが、これはバラモンから借りた言葉では無かったでしょうか?
人が依拠し、守るべき法則のようなもの...漢訳で法とされている意味がなんとなく分かりました。
でも、本当にブッダが伝えようとしたものは、そういうものであって、そういうものではなかった、と思われます。
我々の残されたギリギリの最後的状況...この世の如何なる宗教、思想...依拠する道が、すべての寄るべが失われてしまった時、何が最後の拠り所となるのか...私はブッダのこの言葉は、その時のことを想定して語られたものと思っています。
守るべき法則のようなこちらが構えて、処していかなければならないものが、ギリギリの場で一体何になるでしょうか?
これは苦行や法の遵守に縛られていたバラモンには理解し難い、恩寵のハタラキ的なものではないでしょうか?
このことに着目したのは、玉城康四郎先生でしたが、このことを欠いて、そも"トラワレからの解放"も覚束ないでしょう。
自分からは固着した思いから離れられないものです。
それは又自己を超えたものであって、自己から離れたものではありません。
自己と別の何物があって、それに則るという二段構えが無いのです。
このことは、あらゆる宗教を超え通底していることでしょう。そう、それは正しく宗教という壁を超えたものですi
三千年という時も超えて...今日我々は一体何を拠り所にして生きたらいいのか?
究極の自称覚者ならぬ、究極のダメ人間ーそれはあなたや私かも分からないーに聞くべしi
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