人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

意識は意のままにならない

2019-08-06 11:48:04 | 意識、照明
一昨日、クエーカーの礼拝会に参じたのですが、どうもいつもと様子が違っていました。
たまにあることなんですが..."あれ、オカシイな、いつものようにならない...なあに、あと数分したら自動的に...ならんi 何でや?"
いつものように"ジン、ジン"と礼拝モードになってこないのです。
その印しとも言える、耳鳴りも鳴りを潜めているのです。
"そ、そっか...爪切りがコツ念と消えて気持ちがアタフタしたセイか...いや、この酷暑のセイだ...慢性鼻炎でぐちゅぐちゅしてるセイだ...他所のことに転化したバチだ..."とか考えてても仕方ありません。
私の場合、修行というものでなく、"こうすれば、ああなる"、というキッチリと捉えられる方法論みたいなものがある訳でないので、どうしようもないのです。
いつも事も無げに言っている、"意識を向ける、向いちゃう...すると、パッと..."ということがどういうことなのか、サッパリ分からなくなってしまったのです。
我ながら、そんな摩訶不思議なこと、一体何を言ってきたのでしょう。
"誰かやり方教えてくれませんかあ..."、なんつって...
4、50分ぐらいして、いつの間にか"回復"しました。本当に回復したというのが実感です。
"通ったi"という感じです。
それくらいずっと私には当たり前のことだったのです。有り難いことです。
当たり前だけど、そう思っちゃいけない...こちら側の何ものかによってそうなるんじゃないのですから...。
"意識を向ける、向いちゃう"と言うけれど、何にもないものに向いたりはしません。
こちら側に先立つものがある...無為的にそうさせる、そう在らしめるものがあるのです。
で、何で回復されたのか? 意識を向けたから?...いやこういうのは自意識が働いているとは限らず、よく分かりませんので、いつの間にかなのです。
そうでなしに、"意識を向けよう、向けよう"とすれば、人為的な意思想念に依ろうとし、それを強めて行ってしまうでしょう。
いくら如来に頼り頼もうと、"ウン、ウン"唸ってたって、来ないものはしょうがありません。
そして、どうにかしようと、どっかのチャクラなどに意識を集中しようとか、人為的な方法に頼ろうとすると、スッカリあの感じは蒸発するに至るのは経験して知っています。(これはあくまで私の場合のことを言っているので、他の人に当てはまるかどうかは知りません)
そして、失地回復してみて、この"そう在らしめるもの"と共にあることが、何と自然なことであるか...こちらが意識する、しないより先に向こうさんが呼んでいるようではないか...
"どっかへ行っちゃった"とか、"見捨てられた"とか、"バチが当たった"とか、余計な思案は無用なのです。
私の宿業のようなおバカなスコタンばかりが、勝手に独り相撲しているだけなのでしょう。
風は吹くところに吹く...通るものは自ずと通るのです。
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