人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

念仏の普遍性

2019-08-09 11:59:57 | 仏教関連
鈴木大拙などの禅を中心とした宗教哲学に比べると、あまり馴染みが無いようですが、清沢満之に始まり、暁烏敏、金子大栄、曽我量深、安田理深らを輩出した、真宗大谷派の宗教哲学の学統は、我が国の精神史の中でも特筆すべきものがあったと思います。
宗祖親鸞の教えが、我々により実存的深みをもったものとして、理解されるように至ったのは、彼らの功績だったと言ってもいいでしょう。
その自由な思索、感性に基づく考究の在り方から、時に体制的な、護教精神に囚われた教団側から圧力を受けたりしましたが、その書き物を味わってみて、彼らは哲学する精神を有しているのであり、真宗という教相に囚われていない、ということは充分に伝わってきます。
しかし、清沢師はそれほど感じないにしても、彼らは一様に、"南無阿弥陀仏"の六字の名号に、信心の帰着を求める姿勢を崩そうとはしません。
「名号の外に救いは無いのです」(曽我師)という言葉もあるくらいで、こういった点が、偏狭という印象を与えてしまうのか、縦横無尽に自由に語る大拙師などと違って、イマイチこの学統が浄土系仏教を超えて、広く我が国の精神界に浸透しなかった要因にもなっているように感じます。
しかし、私は"南無阿弥陀仏の外に救いは無い"、いやその通りではないか...と、ヒシヒシと感じてきます。こちらに念仏を称える習慣など無くとも...
念仏に法縁を感じている人には勿論、そうでない人にも、宿縁は一人一人違っていても...この宿縁に出会わされる、ということから離れて救いは無いのではないでしょうか?
小池辰雄先生なら"南無キリスト"であり、玉城康四郎先生なら"南無ブッダ"であって当然構わないでしょう。
こういう極言ともとれる言葉の奥では、ごく私的なことが、普遍性と切り離されていない、ということを表明されているのでしょう。
それは"念仏を称えなければならない"ということではない...こちら側の何かによって救われるのではない、そうでなければ"弥陀の本願"というものは空言にすぎなくなるでしょう。
これは信仰であって、信仰でない...そういうものをいくら観念的に信じたって、命になりません。信じたり、行じたりする以前に、又それらを超えて、命として感じられるものが本願的なものでしょう。
この宿業と本願の消息を究明したところに上記の諸先生たちの真骨頂があると思います。
そして、南無阿弥陀仏というものの内実にあるのは、永遠の命、文字通り普遍に通る光に帰命するということで、浄土系とか仏教という範疇を越えているものなのです。
彼らの表向きの念仏を勧め、深めて行く言葉に隠された真意は、念仏に宿縁を持つ者と同じように、諸人は、各々の宿縁により、各々の最愛のもの、神的なものとつながることだった、と言ったら言い過ぎになるでしょうか?
そこに言葉に表せない教相を超えたものを感じさせつつも、このような普遍性へと開かれた場へと展開しなかったのは、実に惜しい気がします。
これは彼らが学派のうちにとどまり続けた在り方の限界だったのかもしれません。
それにしても、お盆の季節と相俟ってか、その帰命という味わいは、実に我々日本人ならではのものという感じがします。
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