人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神は愛なり

2019-05-04 11:30:26 | 
私が4、5歳の頃母は入院していて居ませんでした。
おそらくその年頃というのは、人がもっとも愛に触れ、それを学ぶ必要がある、と考えられているのではないでしょうか?
その為か昔から人見知りで、人とのコミュニケーションがぎこちなく、(クールとでも言えばいいのでしょうが)とても冷淡なところもあります。
こんな訳で、人間として備えていなければならない愛というものが欠如しているのかもしれません。
ですから、とても日頃ここで愛について語れるような人間じゃないのですi
いつも"どうせ僕は愛されない人間なんだ、そういう運命に生まれてきたんだ..."と思って生きてきたのです。
入院から帰ってきて、"この人は果たして母なのか?"と当惑しながら見ていた、その母は、多分"生長の家"の教えか何かの影響なのでしょうが、時折「神は愛なのよ」と言っていました。
そのように何かしらの信仰を持っていた母でしたが、私が見てきた母の、その最後となる私の大学時代までの生きざまは、愛と平安に導かれたものとは、とてもほど遠かったと言わねばなりません。
しかし、私が本格的に宗教的な道に目覚めた昭和52年秋頃からに限り、"本当に神は愛なのか?"と疑ったことは一度もありません。
この頃、五井先生を知り、その著「愛すること」を読み、"神は愛である"ことに初めて触れたのか、思わず涙が込み上げてきたのです。
翌年の今時分、「生命之光」特集号に載っていた手島先生の「無垢の愛」という、罪ある女が裁かれる場面についての聖書講話をやはり嗚咽をあげて泣きながら読んだのでした。
映画などを観て、感動して泣いたこともありましたが、こういうことはそのどれとも違う性質のものです。
これは一時の感激じゃなく身に覚えているのです。
だから...まるで今日のことのように鮮明によみがってくる...ずーっと私の奥に息づいているのですi
このことは、あの初めて現臨に捉えられ、愛、平安、リアリティに与ったこととも勿論つながっています。
改めて思うことは、私は特別な修行に依拠してきた訳じゃないのです。
本当に知らなければならないことは、知らずに知らされていたのですi(ヘンな言い方ですが)
"神は愛なり"...忘れちゃいませんi...これを忘れてしまうんなら、真理だの、悟りだの全くどうでもいいですi
神的な愛を示されない宗教やスピなど、さっさとヤメた方がいいですよi
いたずらにトラワレばっかし抱え込んだり、空想、妄想に明け暮れたり、エゴが弱まるどころか、肥大化したり、挙げ句は自分ごとどっかへ消え去ってしまうだけですから...
これは分かる人には全く自明なことでしょう。
と言って、私は神秘体験とか、体験しなければダメだi、何て言ってるつもりはありません。
神の愛、神への愛は、求めて得られるものじゃなく、元々与えられているものじゃないですか? 忘れてしまったんですか?
おおっと...私が言うのか?
私は人間として当たり前に有している、愛というものが欠如している...だからこそ、神的な愛に触れずに居れなかったのかもしれません。
こういうこと言うのに相応しいのか、どうかよお分かりませんが...
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