人は宗教、思想、スピを通じて真理を追及し、見出そうとするものです。
私も時に冷徹な、妥協の無いまでにそれに駆り立てられることも有ります。
けれども…もし、究極の真理というものが目の前にあったとして、すぐ横で子猫ちゃんなりが愛を訴えていたとしたら…
おそらく、子猫ちゃんの方に向かう事でしょう…
私のことをよく知っている人が聞いたら、笑ってイスから転げ落ちるかも知れませんが…
”あなたはゾッとするほど冷たい人だ…”と言う声も聞いた事が有ります。
しかし、愛が無ければ…どんなに高遠な真理だろうと、それのみがあの恩寵の光の臨在には導いてはくれないのです。
真理と愛というのは別個のものでない、というのも”真理”かも知れません。
表れは別のものでも、深部ではつながっているものだから…
しかし、それでも愛が無ければ…
”一体、どうすれば恩寵の光を受けられるのですか?”とは何人かの人に訊かれました。
しかしですねえ…愛の道を何かの方法論、メソッドにスリ代えるってのは、愛の道にもとることなんじゃないですか?
どうやったら、映画を観て、音楽を聴いて、感動することが出来ますか?
どうやったら、好きな人に胸キュン出来ますか?
実にズレた話です。訊くだけ野暮なことでしょう。
まあ、言うのも野暮な事なんですが…そういう事はあなたのハートに聞いてみろ、という事なんです。
瞑想愛好家の人はハートのチャクラを開くのに余念のない人も居られることでしょう。
(余談ですが、ハートに限らず、チャクラとかクンダリーニの何たるかなど知らない人のほうが圧倒的に多く宗教的回心や覚醒に預かっていると思います。その行者でない人、昔の人皆そうです。別にその事を否定しませんが…)
私と違って?見た目も中身もアイスマンの人は野暮な事も必要なのかも知れません。
強いてやり方を示すとすれば私は”祈ること”だと思います。
どうやって祈るのか?って…また野暮なことを!
方法とか祈りの文句とか効き目などに捉われている人は”祈り心”を知らない人です。
文句とか効き目などというのは呪文とかの話じゃないですか?…こんなところから祈りというものがある目的に据えられてしまい、念力的なものに変質してしまうのでしょう。
どうしても、こうしても私は最善、最愛のお方に会わずに居れない、引き付けられずに居れない、命を投げ出すに居れない…真心の発露…
ここにやり方も効き目もヘチマもあるもんですか!…私は最善、最愛のものを二義以下のものに絶対に貶めたくはありません!(いや、ほんとに愛と真理というのは分けられないものです!)
これはハートで感じていることなのです。ハートとは全ての私の焦点です。焦点と言っても、こことか、どこそこにそれが有るとは言えません!意識を集中するどこかのことではありません! ハートで感じる事で自ずと”見えざる中心へと意識が集まる”のです。
真理が何かが分からなくなって迷うような事が有っても、その焦点に立ち返ることで自分を取り戻すことが出来ます。
だから真理と愛は同じだけれど、真理は愛に譲らなければならないのです!
最善、最愛のものとは、今現在あなたがそう感じているもののことで、そこにあなたが本当につながるべき最善、最愛のもの(神かも、真我かもしれない)が隠れているのです。ハートからなる祈りによってそのものが呼び覚まされるのです。
ラマナ・マハルシは「ハート(チャクラでは無い)こそは真我の座である」と言いました。ラマナがジュニアーナ(真我の探究〉の道と並んで帰依(明け渡し)の道を唱道したのも実に分かる気がします。
友よ!…私はそんなに冷酷に見えるのか…どんなに冷酷非常なものを映し出しても…私は最後には泣いてしまうよ…。
私も時に冷徹な、妥協の無いまでにそれに駆り立てられることも有ります。
けれども…もし、究極の真理というものが目の前にあったとして、すぐ横で子猫ちゃんなりが愛を訴えていたとしたら…
おそらく、子猫ちゃんの方に向かう事でしょう…
私のことをよく知っている人が聞いたら、笑ってイスから転げ落ちるかも知れませんが…
”あなたはゾッとするほど冷たい人だ…”と言う声も聞いた事が有ります。
しかし、愛が無ければ…どんなに高遠な真理だろうと、それのみがあの恩寵の光の臨在には導いてはくれないのです。
真理と愛というのは別個のものでない、というのも”真理”かも知れません。
表れは別のものでも、深部ではつながっているものだから…
しかし、それでも愛が無ければ…
”一体、どうすれば恩寵の光を受けられるのですか?”とは何人かの人に訊かれました。
しかしですねえ…愛の道を何かの方法論、メソッドにスリ代えるってのは、愛の道にもとることなんじゃないですか?
どうやったら、映画を観て、音楽を聴いて、感動することが出来ますか?
どうやったら、好きな人に胸キュン出来ますか?
実にズレた話です。訊くだけ野暮なことでしょう。
まあ、言うのも野暮な事なんですが…そういう事はあなたのハートに聞いてみろ、という事なんです。
瞑想愛好家の人はハートのチャクラを開くのに余念のない人も居られることでしょう。
(余談ですが、ハートに限らず、チャクラとかクンダリーニの何たるかなど知らない人のほうが圧倒的に多く宗教的回心や覚醒に預かっていると思います。その行者でない人、昔の人皆そうです。別にその事を否定しませんが…)
私と違って?見た目も中身もアイスマンの人は野暮な事も必要なのかも知れません。
強いてやり方を示すとすれば私は”祈ること”だと思います。
どうやって祈るのか?って…また野暮なことを!
方法とか祈りの文句とか効き目などに捉われている人は”祈り心”を知らない人です。
文句とか効き目などというのは呪文とかの話じゃないですか?…こんなところから祈りというものがある目的に据えられてしまい、念力的なものに変質してしまうのでしょう。
どうしても、こうしても私は最善、最愛のお方に会わずに居れない、引き付けられずに居れない、命を投げ出すに居れない…真心の発露…
ここにやり方も効き目もヘチマもあるもんですか!…私は最善、最愛のものを二義以下のものに絶対に貶めたくはありません!(いや、ほんとに愛と真理というのは分けられないものです!)
これはハートで感じていることなのです。ハートとは全ての私の焦点です。焦点と言っても、こことか、どこそこにそれが有るとは言えません!意識を集中するどこかのことではありません! ハートで感じる事で自ずと”見えざる中心へと意識が集まる”のです。
真理が何かが分からなくなって迷うような事が有っても、その焦点に立ち返ることで自分を取り戻すことが出来ます。
だから真理と愛は同じだけれど、真理は愛に譲らなければならないのです!
最善、最愛のものとは、今現在あなたがそう感じているもののことで、そこにあなたが本当につながるべき最善、最愛のもの(神かも、真我かもしれない)が隠れているのです。ハートからなる祈りによってそのものが呼び覚まされるのです。
ラマナ・マハルシは「ハート(チャクラでは無い)こそは真我の座である」と言いました。ラマナがジュニアーナ(真我の探究〉の道と並んで帰依(明け渡し)の道を唱道したのも実に分かる気がします。
友よ!…私はそんなに冷酷に見えるのか…どんなに冷酷非常なものを映し出しても…私は最後には泣いてしまうよ…。
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