私はいつも"意識を向ける"とか"意識的になる"、とかテキトーなこと言ってますけど、言うまでもなく正確な表現ではないのです。
というか、正確に言い表すことは不可能でしょう。何しろ意識というものは、思考に先立つ、その根底にあるもの、あるいはそれを超えてあるものなのですから...
いや、そんなこと以前に、中には意識のことを意志というものと同じように思っている向きも居るかもしれません。
私が現実に感じるものに照らせば、まるっきり違う感じがするのですがねえ...。
言葉の字義を問題にしているのではないので、ここでは(初めての人もいるでしょうから)先の意味で勝手に進めてゆきます。
"意識は思考の根底にあるもの"...こう言ったはいいが、これは如何にも存在論に即した言い方になってしまいますね。
これも現実にそういう風に感じる訳でないものを、便宜的にそう言っているまでで...ということはそれは動く、ハタラキ的なものなのか?...って、考えてしまう訳ですが、要するに思弁を超えているのですi(こう書いていて私の意識は後者に傾くようです)
意識を向けるという言い方には、意志的なものも関わっているのは確かでしょう。そう意志しないことには始まってこない。
しかし、それはほんの取っ掛かりにすぎません。"パッ"と...ということはすぐさまその意識、意識的な動きにゆだねられてしまうのです。
この意識的なものには現臨が伴っているからそうなってしまうのですが、人為的なハタラキが無為的なものに切り替えられるのです(これはある面では、意識的なものの方がそう仕向けているとも言えるのです)。
この意味で、"思いを意識に向ける"と言った方が正確なのかもしれませんが..."意識を向ける"と言った場合、思考ではなく、意識的なものが主導で行われる、ということを伝えようとしているのです。
つまり、私はここで無為的な意識というものと、人為的な意志というものをハッキリ区別しているのですが、このことは、実に"思いを超える"というステージにおいて、極めて重要な意味を持っているのですi...
これは人間の精神は、思考がすべてだと思っている向きには全く理解出来ないことでしょう。しかし、そんな人間居るか?...そう思っているだけで、どっかで思考を超えた領域の感覚は、誰しもが持っているはずではないでしょうか? 熱中症とか、コロナの重篤化などで思考機能が後退してしまったりして...
いずれにしても、かくも人間精神いや、それをも超えて根本的な、重要な役割をもった意識のこと、人生の裏側のことが蔑ろにされているのだから、このことが"意識されない"のもやむを得ないことなのでしょう。
意識と意志は区別されねばならない...その又大きな理由は、思弁的な意志は、超越的な意識に取って代わろうとするからです。
思考を超えた意識の領域のことは分からないのだから、テキトーに言うしかないのです。これ、オツムの足りないことの言い訳だけじゃないですよi..."私は意識のことはハッキリ、正確に分かってるんですi"、ってのがアヤウイのですi
どこまでも考える人間には限界がある、という自覚が必要なのです。
このことは、今のこの時期にこそ言えることでしょう...。
というか、正確に言い表すことは不可能でしょう。何しろ意識というものは、思考に先立つ、その根底にあるもの、あるいはそれを超えてあるものなのですから...
いや、そんなこと以前に、中には意識のことを意志というものと同じように思っている向きも居るかもしれません。
私が現実に感じるものに照らせば、まるっきり違う感じがするのですがねえ...。
言葉の字義を問題にしているのではないので、ここでは(初めての人もいるでしょうから)先の意味で勝手に進めてゆきます。
"意識は思考の根底にあるもの"...こう言ったはいいが、これは如何にも存在論に即した言い方になってしまいますね。
これも現実にそういう風に感じる訳でないものを、便宜的にそう言っているまでで...ということはそれは動く、ハタラキ的なものなのか?...って、考えてしまう訳ですが、要するに思弁を超えているのですi(こう書いていて私の意識は後者に傾くようです)
意識を向けるという言い方には、意志的なものも関わっているのは確かでしょう。そう意志しないことには始まってこない。
しかし、それはほんの取っ掛かりにすぎません。"パッ"と...ということはすぐさまその意識、意識的な動きにゆだねられてしまうのです。
この意識的なものには現臨が伴っているからそうなってしまうのですが、人為的なハタラキが無為的なものに切り替えられるのです(これはある面では、意識的なものの方がそう仕向けているとも言えるのです)。
この意味で、"思いを意識に向ける"と言った方が正確なのかもしれませんが..."意識を向ける"と言った場合、思考ではなく、意識的なものが主導で行われる、ということを伝えようとしているのです。
つまり、私はここで無為的な意識というものと、人為的な意志というものをハッキリ区別しているのですが、このことは、実に"思いを超える"というステージにおいて、極めて重要な意味を持っているのですi...
これは人間の精神は、思考がすべてだと思っている向きには全く理解出来ないことでしょう。しかし、そんな人間居るか?...そう思っているだけで、どっかで思考を超えた領域の感覚は、誰しもが持っているはずではないでしょうか? 熱中症とか、コロナの重篤化などで思考機能が後退してしまったりして...
いずれにしても、かくも人間精神いや、それをも超えて根本的な、重要な役割をもった意識のこと、人生の裏側のことが蔑ろにされているのだから、このことが"意識されない"のもやむを得ないことなのでしょう。
意識と意志は区別されねばならない...その又大きな理由は、思弁的な意志は、超越的な意識に取って代わろうとするからです。
思考を超えた意識の領域のことは分からないのだから、テキトーに言うしかないのです。これ、オツムの足りないことの言い訳だけじゃないですよi..."私は意識のことはハッキリ、正確に分かってるんですi"、ってのがアヤウイのですi
どこまでも考える人間には限界がある、という自覚が必要なのです。
このことは、今のこの時期にこそ言えることでしょう...。
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