人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真我はX

2019-08-01 05:40:54 | スピリチュアル
悟り系スピなどで、よく説かれている、"私はいない、全体しかない"という教説について、私はずっと疑問を呈してきたのですが、どうして"全体しかない"と、そう分かる私がいなくて、そういうことが言えるのか? ということがどうしても腑に落ちないのです。
"全体だけしかない"...これは、"まっしろ"、何も無い、絶対的な無のようなものではないでしょう。そう言っている私は在るじゃないかi
何も分からない、認識出来ない、示されないことについては、何も言えるはずなど無いのです。
"私はいない"と言い得るものについては、"そう考えている自分はいない"という含みであれば、一応は頷けることが出来ます。
"考えている私"というものは、それだけ日常において自己と同一化されている、ということなのでしょう。
そして考えている私がいなくなると、私というものは、全体なるものに取って代わる? あるいは全体の中に溶けちゃう? んな訳なかろうi
いや、むしろそうなってみて初めて、それまで示されなかった"本当の私"を実感する...かもしれない...。
つまり、"個である私がいなければ、全体しかない"、とか"どっちかしかない"ということにはならないのではありませんか?
考えている自分、思考を超えたもの、それに先立って息づいているもの、上よりの光(照明)、そのものによって、無限なるものに開かれるものが、在るのです。(いやホントは"在る"という風に実体あるもののようには、言い得るものではないのですが...)
私はずっと、この辺りの消息を書き表して来たのです。
これを真我として説明することも出来るかもしれません。が...
それは、"こうこうこういうもので..."と説明など出来るでしょうか?
もし、それで分かったつもりになるだけだったら、ずっとそう考えている自分のままでしょう。
"自我があり、真我があり、それはブラーマンみたいな一者と一つである..."
そういう教説をいくら頭に描いていようと、客観的に、第三者みたいに、それを向こうにおいて、捉えられるものではないのです。
私は真我というものが在る、というその実体のことは知らないのです。
ただ、考えている自分の与り知れないものであることが知らされるだけなのです。
思いが超えられると共に現前してくるものがある...それは、思念による空想、妄想ではないということです。
一定の知的理解というものはあっても、それはどこまでも自己に直接顕わにされるものではないでしょうか?
真我は客観化されるものではない...他人の見解など及びではありません。あなた自身で自内証されるものです。
釈迦が弟子の"真我というものが在るのか?"という質問に対して、"無記"としか答えなかったのは、そういう先見に囚われることを避けるためだったのでしょう。
この意味で、真我は永遠のXなのでしょう。その正体は永遠に分からないものかもしれません。
正体が分かったとしても、分かったあなたの思念に取り込まれるだけでしょう。
"思われた私は、本当の私ではない"ということが示されることがあるだけなのでしょう。
永遠のX、永遠のなんじがあるのみ...。
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