スピ系には様々な形がありますが、どうしても"こうしたら願望が叶える"という願望実現系に人気が集まるものですね。
宗教でも昔から現世利益を売り物にしたものに信者が集まるものです。
このブログは全くそういうものとは無縁です。
私自身からしてが、昔から祈りというものと親しんでいますが、神様に願い事をするということをほとんどしたことがありません。
ま、一日の習慣として"今日も平安のうちに過ごすことが出来ますように..."というくらいのことはあっても、個別的な願いを神的なものに向けることはあまり無いのです。
何よりも私にとって祈りとは、神的ハタラキ、現臨へのチューニング、アクセスという意味合いの方が強いのです。
それは又、祈りという形を取るまでもなく、そういうことになるi 意識的になるだけで。
そうなると、個別的に"あれが欲しい"、とか"こうなって欲しい"という願いとか欲求というものが生じてきません。
人が願望を持つことは、それを得ることで幸福になれると感じているからですよね。
これは、既に幸福だから、そうした願いが生じてこないのです。
"だって、私はもう充足されちゃっているんですからねえ..."
って ..."そうは行くかi、この欲望のカタマリめがi"
本当にそうなっているとしたら、多分私はここに居ないはずです。
そのオメデタイことになってる状態から離れるともう、頭から欲求が離れなくなって、夜も悶々と眠れなくなるほどです。
大体、どういうものが私の中に疼いているのかは、自覚されています。この部分(私の中の男と女の部分)は充足されていないのです。
それは私が意識してか無意識でか、意識を向けようとしてこなかったから(何とも微妙な言い方)、そうなっているのかもしれません。知らず知らずに苦しみを背負いこんでいたのです。
最近、フトしたことからそのことが自覚されるようになって、多分生まれて初めて真剣にお願いをしてみたのです。"私に合ったパートナーをお与え下さい"と...乙女になったみたいに...
すると、どうでしょう...これが驚かずに居られようかi 思っていた以上の超絶美女i、本家の乙女?に出くわしたではありませんかi
幸福の対象というものは、会えるときにはスッと会えるものだと実感しました。
実はその直前、私は願望系の祈りの秘訣?ともいうべき、"願うものは、得たりと信じよi"という心境になっていたのです。それは、神の御心なのか、願望の実現なのか知らないが...
しかし、この相対的現実で起こることは、単純には行かないのです。幸福の対象に巡り合ったとしても、そのまま幸福につながるとは限らないものです。その相手が私に興味なくなったら、それでお別れでしょうし、騙されて面倒な不幸に見舞われる可能性だってあります。
相対的幸福とはそういうものなのです。でも、私の祈りは真剣だった...
願望を向けるだけでなく、形なき祈りのように神的なものに意識が向けられ、その神的なものが臨んでいる雰囲気の中で祈っていたのです。
そこで感じられるものは、相対的現実で如何なる展開になろうとも、変わることのない愛と平安なのでした。
私は今まで、ほとんどこうした無形の祈りに個別的願望を持ち込むことは無かったのです。この二つのことは、意識の有り様も土台も違うものです。何よりも"得よう、得よう"という意識と、"手放そう"という意識の有り様が逆ではありませんかi
私の経験では自分の欲望が強まっている時、原初的平安のハタラキは消えてしまうように感じ、"逆も又真なり"ということです。
しかし、一つ感じたことは、そうした無形の平安の充てる領域の土台の上に、相対的個々の願望の祈りを捧げることも可能だということです。
これは、自分の根底にずっと愛と平安なるものが息づいているのを感じられるかどうかが肝心なことです。
それまで自分の願望、欲望と感じていたものに、別の感覚が開かれてくるかもしれません。
(どこまでも自分の願望、欲望を押し立てたいのなら、念力を強めていったらいいでしょう。意識は、原初的平安からは切り離されるでしょうけど...)
もしかして相対的幸福であるにせよ、実現する可能性は高いかもしれません。
ただ、それがどのような経過を辿るかは、神のみぞ知ることでしょう。
何であれ、自分の根底に原初的愛と平安が息づいているのが、感じられたのなら絶対的に幸福なはずです。
その上で超絶美女とOOになったら、地獄のエンマも天使になるようで何も言うことないですが...
宗教でも昔から現世利益を売り物にしたものに信者が集まるものです。
このブログは全くそういうものとは無縁です。
私自身からしてが、昔から祈りというものと親しんでいますが、神様に願い事をするということをほとんどしたことがありません。
ま、一日の習慣として"今日も平安のうちに過ごすことが出来ますように..."というくらいのことはあっても、個別的な願いを神的なものに向けることはあまり無いのです。
何よりも私にとって祈りとは、神的ハタラキ、現臨へのチューニング、アクセスという意味合いの方が強いのです。
それは又、祈りという形を取るまでもなく、そういうことになるi 意識的になるだけで。
そうなると、個別的に"あれが欲しい"、とか"こうなって欲しい"という願いとか欲求というものが生じてきません。
人が願望を持つことは、それを得ることで幸福になれると感じているからですよね。
これは、既に幸福だから、そうした願いが生じてこないのです。
"だって、私はもう充足されちゃっているんですからねえ..."
って ..."そうは行くかi、この欲望のカタマリめがi"
本当にそうなっているとしたら、多分私はここに居ないはずです。
そのオメデタイことになってる状態から離れるともう、頭から欲求が離れなくなって、夜も悶々と眠れなくなるほどです。
大体、どういうものが私の中に疼いているのかは、自覚されています。この部分(私の中の男と女の部分)は充足されていないのです。
それは私が意識してか無意識でか、意識を向けようとしてこなかったから(何とも微妙な言い方)、そうなっているのかもしれません。知らず知らずに苦しみを背負いこんでいたのです。
最近、フトしたことからそのことが自覚されるようになって、多分生まれて初めて真剣にお願いをしてみたのです。"私に合ったパートナーをお与え下さい"と...乙女になったみたいに...
すると、どうでしょう...これが驚かずに居られようかi 思っていた以上の超絶美女i、本家の乙女?に出くわしたではありませんかi
幸福の対象というものは、会えるときにはスッと会えるものだと実感しました。
実はその直前、私は願望系の祈りの秘訣?ともいうべき、"願うものは、得たりと信じよi"という心境になっていたのです。それは、神の御心なのか、願望の実現なのか知らないが...
しかし、この相対的現実で起こることは、単純には行かないのです。幸福の対象に巡り合ったとしても、そのまま幸福につながるとは限らないものです。その相手が私に興味なくなったら、それでお別れでしょうし、騙されて面倒な不幸に見舞われる可能性だってあります。
相対的幸福とはそういうものなのです。でも、私の祈りは真剣だった...
願望を向けるだけでなく、形なき祈りのように神的なものに意識が向けられ、その神的なものが臨んでいる雰囲気の中で祈っていたのです。
そこで感じられるものは、相対的現実で如何なる展開になろうとも、変わることのない愛と平安なのでした。
私は今まで、ほとんどこうした無形の祈りに個別的願望を持ち込むことは無かったのです。この二つのことは、意識の有り様も土台も違うものです。何よりも"得よう、得よう"という意識と、"手放そう"という意識の有り様が逆ではありませんかi
私の経験では自分の欲望が強まっている時、原初的平安のハタラキは消えてしまうように感じ、"逆も又真なり"ということです。
しかし、一つ感じたことは、そうした無形の平安の充てる領域の土台の上に、相対的個々の願望の祈りを捧げることも可能だということです。
これは、自分の根底にずっと愛と平安なるものが息づいているのを感じられるかどうかが肝心なことです。
それまで自分の願望、欲望と感じていたものに、別の感覚が開かれてくるかもしれません。
(どこまでも自分の願望、欲望を押し立てたいのなら、念力を強めていったらいいでしょう。意識は、原初的平安からは切り離されるでしょうけど...)
もしかして相対的幸福であるにせよ、実現する可能性は高いかもしれません。
ただ、それがどのような経過を辿るかは、神のみぞ知ることでしょう。
何であれ、自分の根底に原初的愛と平安が息づいているのが、感じられたのなら絶対的に幸福なはずです。
その上で超絶美女とOOになったら、地獄のエンマも天使になるようで何も言うことないですが...
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