私はいつも、“神に意識を向けるとか向いちゃう“とか、抽象的で捉えどころの無いようなことを言ってますが、これは実は具体的なことだったりするのです。
これは、神は捉えどころが無いですが、向ける、向いちゃう何かがあるということなのです。
それは、実に具体的に感じられるものです。じゃ、それは何かと言ったら...これが言えない!
余計捉えどころが無いみたいですが、純粋に感覚的なものではあるのだけれど、実体のあるものとして、例えば身体の一部位のようなものとして言い表せないものなのです。
従って、これは瞑想修行などでよく言われる、アジナとかアナハタとかのチャクラのことを言っているのではありません。だから私は、そういうものに意識を集中したりすることはありません。むしろ、意識は自分の意志想念を超えて、自ずからそれに集まってくるという、そういう曰く言い難いポイントがあるということなのです。
そう意識はこれに向く、向けられるという訳です。
ちょっと前、風邪のために“あれ“が感じられなくなった、というのは、具体的には“これ“(あれとかこれとかややこしいでんな!)が感じられなくなった、ということなのです。
私はここで極めて驚くべき、重要なことを言っているようなのですが、これを何と言うのですか?...そういう特別な言葉は無いの?、んなバカなあ!
スピリチュアル.ハイパー変換器?...いや、そんな物品じゃないんだって!
霊性の道を真摯に歩んでいる方なら皆知っているでしょう?(もっとも私などずっと、なんとなーく感じていたものだったのですが、自覚的では無かったのです。それをここで、“神に意識を向ける“とかテキトーなこと書いていて、“はて、神の何に向けるんだろう?“、なんてことを感じ出したりして自覚的になっていった次第なのです)
老子が“きょう“とか“玄牝の門“とか言っているもののことなのでしょうか?
あるいは又、ラマナ.マハルシが、“ハート“(これは特定の部位のことではなく、その辺りに感じられるあるもののことです)と言っているものに頷けるものを感じます。それは“真我の座“とも言われる。
あるいは、これに対して特別な名称が与えられなくてもいいものなのかもしれません。
主我的な思いで捉えようとすると、無くなってしまうか、別のものに変質してしまうことでしょう。
だから、これを開発する特別な方法というものは無くてもいいのです。いつの間にか、自ずから開かれるものなのでしょう。
とにかく、神の現臨に伴う愛、平安、リアリティというものは、この“神の座、真我の座“ともいうべきところを通して具体的に感じられるものなのです。いや、その臨在というもの自体、そこから顕わになるとも言えるのです。
少し前、私はここにあるものは実在し、ここに無いものは消えてゆく...ということを書かされたのでした。
つまりは、“これが在る“、ということなのです。
これは、神は捉えどころが無いですが、向ける、向いちゃう何かがあるということなのです。
それは、実に具体的に感じられるものです。じゃ、それは何かと言ったら...これが言えない!
余計捉えどころが無いみたいですが、純粋に感覚的なものではあるのだけれど、実体のあるものとして、例えば身体の一部位のようなものとして言い表せないものなのです。
従って、これは瞑想修行などでよく言われる、アジナとかアナハタとかのチャクラのことを言っているのではありません。だから私は、そういうものに意識を集中したりすることはありません。むしろ、意識は自分の意志想念を超えて、自ずからそれに集まってくるという、そういう曰く言い難いポイントがあるということなのです。
そう意識はこれに向く、向けられるという訳です。
ちょっと前、風邪のために“あれ“が感じられなくなった、というのは、具体的には“これ“(あれとかこれとかややこしいでんな!)が感じられなくなった、ということなのです。
私はここで極めて驚くべき、重要なことを言っているようなのですが、これを何と言うのですか?...そういう特別な言葉は無いの?、んなバカなあ!
スピリチュアル.ハイパー変換器?...いや、そんな物品じゃないんだって!
霊性の道を真摯に歩んでいる方なら皆知っているでしょう?(もっとも私などずっと、なんとなーく感じていたものだったのですが、自覚的では無かったのです。それをここで、“神に意識を向ける“とかテキトーなこと書いていて、“はて、神の何に向けるんだろう?“、なんてことを感じ出したりして自覚的になっていった次第なのです)
老子が“きょう“とか“玄牝の門“とか言っているもののことなのでしょうか?
あるいは又、ラマナ.マハルシが、“ハート“(これは特定の部位のことではなく、その辺りに感じられるあるもののことです)と言っているものに頷けるものを感じます。それは“真我の座“とも言われる。
あるいは、これに対して特別な名称が与えられなくてもいいものなのかもしれません。
主我的な思いで捉えようとすると、無くなってしまうか、別のものに変質してしまうことでしょう。
だから、これを開発する特別な方法というものは無くてもいいのです。いつの間にか、自ずから開かれるものなのでしょう。
とにかく、神の現臨に伴う愛、平安、リアリティというものは、この“神の座、真我の座“ともいうべきところを通して具体的に感じられるものなのです。いや、その臨在というもの自体、そこから顕わになるとも言えるのです。
少し前、私はここにあるものは実在し、ここに無いものは消えてゆく...ということを書かされたのでした。
つまりは、“これが在る“、ということなのです。
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