私とは何か?、私はどうしてここに居るのか?...いつも言っているように、そうして意味を追求し、自分で、あるいは誰かが説いているものを通して、ある真理らしきものに到達した、分かった、と思ったとしても、それは理屈を知ったというだけで、本当?の私が分かったとは言えないのです。
いや、”分かる”ということ自体、大体そういうものでしかないのでしょう。つまり分かった自分と分かった対象とはずっと”分けられた”ままだということです。
これは、鏡を通さないと直接自分の顔を見ることが出来ないことと同じことでしょう。
これに従えば、自己以外の他者存在、その関係を通して自己を認識しているということは一応言えるかもしれません。
恐山の禅僧、南俊哉さんは、ずっとこうした実存的な問題に取り組んでおられるのですが、その著「自分をみつめる禅問答」(角川ソフィア文庫刊)を読んでいたら、その自己たらしめる他者と思しきものとして、”非己”という聞き慣れない言葉が唐突に出てきました。
”う~ん”...自己以外の何かだから非己?...これは言葉に表し難いことを表現しているのであろうから、語義に囚われる必要もないと思いますが、だからこそと言うべきか、”語感”というものも結構大事だと思いますよ。
何にせよ、この非己は、多く”他の人”のことを指しているのだろうと思われるのですが、”見えないもの”のことは、あまり伝わってきません。概して著者は、神的なもの、霊的なものといった、形而上的実体と結びつく、そうした超越的存在については触れようとしないようです。
これについて何度も言うように、見えないものにそうした、思念で思い描いたような神の実体や何かの霊体を持ち出す必要は無いのです。
見えないものとは、端的に思いを超えたもののことなのです。
そして、いつも現実には、非己というか他者存在は居なくとも、私というもの、実存というものを意識されるならば、同時に、直ちにこの見えない何かがここに臨む、あるいは私に内在していたものが顕わになるのを感じずにおれなくなります。
「超越的なものと内在的なものは切り離せない」(西田幾多郎)
どう呼ぼうと自由ですが、少なくとも私は、この神的な現臨のことを非己と呼ぶという風には感じて来ませんねえ...
何故ならば、それは私を在らしめるものに他ならないから!
このもの無しに、自己実存は示されないものだから!
私とは何か、私は何故ここに居るのか?、と私が考える先からこのものがある!
”自己は、この見えない他者との関係によってある”、とは、仏教の縁起論のように、一応説明出来ることでしょう。
だけど、この圧倒的な現存、臨在感の前には、それは所詮”私が居て、聞いた”という、説明されたものにしか感じられて来ないのです。
このものは、つまり私以上の私なんだ!...
いや、”分かる”ということ自体、大体そういうものでしかないのでしょう。つまり分かった自分と分かった対象とはずっと”分けられた”ままだということです。
これは、鏡を通さないと直接自分の顔を見ることが出来ないことと同じことでしょう。
これに従えば、自己以外の他者存在、その関係を通して自己を認識しているということは一応言えるかもしれません。
恐山の禅僧、南俊哉さんは、ずっとこうした実存的な問題に取り組んでおられるのですが、その著「自分をみつめる禅問答」(角川ソフィア文庫刊)を読んでいたら、その自己たらしめる他者と思しきものとして、”非己”という聞き慣れない言葉が唐突に出てきました。
”う~ん”...自己以外の何かだから非己?...これは言葉に表し難いことを表現しているのであろうから、語義に囚われる必要もないと思いますが、だからこそと言うべきか、”語感”というものも結構大事だと思いますよ。
何にせよ、この非己は、多く”他の人”のことを指しているのだろうと思われるのですが、”見えないもの”のことは、あまり伝わってきません。概して著者は、神的なもの、霊的なものといった、形而上的実体と結びつく、そうした超越的存在については触れようとしないようです。
これについて何度も言うように、見えないものにそうした、思念で思い描いたような神の実体や何かの霊体を持ち出す必要は無いのです。
見えないものとは、端的に思いを超えたもののことなのです。
そして、いつも現実には、非己というか他者存在は居なくとも、私というもの、実存というものを意識されるならば、同時に、直ちにこの見えない何かがここに臨む、あるいは私に内在していたものが顕わになるのを感じずにおれなくなります。
「超越的なものと内在的なものは切り離せない」(西田幾多郎)
どう呼ぼうと自由ですが、少なくとも私は、この神的な現臨のことを非己と呼ぶという風には感じて来ませんねえ...
何故ならば、それは私を在らしめるものに他ならないから!
このもの無しに、自己実存は示されないものだから!
私とは何か、私は何故ここに居るのか?、と私が考える先からこのものがある!
”自己は、この見えない他者との関係によってある”、とは、仏教の縁起論のように、一応説明出来ることでしょう。
だけど、この圧倒的な現存、臨在感の前には、それは所詮”私が居て、聞いた”という、説明されたものにしか感じられて来ないのです。
このものは、つまり私以上の私なんだ!...
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