人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

エゴイストのひとりごと

2017-06-13 03:06:19 | 詩的文章
名著、名画、名盤…
一体誰が選定したの?
評論家?、その筋の人?、ただの提灯持ち?
巷でそう言われているの?
僕は読んだことも、観たことも、聴いたことも無いものは知らない
実際に読んで、観て、聴いて…
”こいつあ、参った…惹かれてやまない、離れそうにない…”
というのが僕の名著、名画、名盤
それ以外にはどこにも存在しない
長いものにおもねった迷著、迷画、迷盤の類…
世間一般というサタンなんかに魂を売り渡してなるもんか!
人生は短い…読まずに、観ずに、聴かずに死ねるか!
ハドーボイルドだど!)

これを信じれば幸せになれる
こうすれば悟りが開ける
あの先生がそう言った…
巷で評判になってる…
騙されるもんか!
信憑性、実用性、公用性…知ったこっちゃない!
僕の神からは何も告げられてはいない
僕の五臓六腑は何も頷いていない
僕の神でない、アダシ神なんかに魂を売り渡してなるもんか!
よしんば僕の神がサタンだとしても、
本当にこの魂がそこに魅せられてしまうのなら…
地獄に落ちても本望だ!
人生は賭け…冒険もあるだろう、失敗もあるだろう…されど
人生は短い…取り返しのつかない失敗は許されない
自分が本当に引き付けられないものに、人生をゆだねてしまうことなど…

僕は自分が好きなものにはトコトン拘る
ゼッタイ、妥協なんか出来ないのさ!
好い加減なところで手打ちなんかにはしないぞ!
ワクワクを皆でワイワイには変えられない
”みんな知ってるよ、君だけだよ知らないのは…”
何だって…そうじゃない!
この無上の喜びは僕しか知らないんだ!
天上天下唯我独尊
僕はこうして人生の裏側へと踏み込んでしまった…
人生は短い…誰のものでも無い僕の人生
あたえられた喜びはトコトン味わおう…

ただのエゴイストのひとりごと…



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頭の中のカビ

2017-06-11 06:22:33 | 映画・音楽など
私の旧友に”ミスター・レトロ”こと、「すぎた」というヤツが要るんですが、最近どうも私のことを避けているようなのです。
その理由がどうも、最近私がかつて二人の間で交わした、”ロックは聴かない、買わない、語らない”という”ロック3kの誓い”を犯して、頻繁に聴いていたり、カラオケで歌ったり(ほとんど洋楽)、時折ブログに書いたりしているからのようです。
つまり私は裏切り者ということらしいのです。
そうだった…我々は確かにロックを目の敵のように憎んでいました。
巷で軽音楽(古い!…とっくの昔に死語です!〉の主流と言ったら、ロック、ポップスでしょうが、我々の主流はラテン、タンゴ、ジャズ、シャンソンなどのそれも古めのものなのです。そしてロックはあくまで傍流なのです…どうです!…この表面の日の当たる世界のとは、まんま裏返しの知られざる裏面のこの有り様…我々のメイン・ストリームの音楽は、憎っくきロックの侵攻のために隅っこに追いやられ、押し込められるに至ったのです。
それが”どうだ、見たか、このリベンジを!”と言いたいのですが…本当のところ私はある時目覚めたのです!
数十年前、大阪の中古レコード屋さんで、ずっと昔求め続けて、方々捜し歩いても見つからず、諦めていたレコードのCD化されたものを見つけて、衝動買いをしたのがキッカケでした。
それは「アラン・プライス/プライス・オン・ヒス・ヘッド」という、67年頃リリースされた、知られざる禁断のロックものです。
「すぎた」も私も実は、多くの人たちと同じく、思春期の頃ロックやポップスを聴いて育ったのです。ストーンズやザ・フー(呪わしきブリティッシュ・インヴェーション!)とかがナツメロなのも確かな事なのです!
(私は彼には内緒で密かに楽しんでいたのです)
アラン・プライスという人は、ずっと我が国では、”元アニマルズのメンバー”という紹介のされ方が付きまとっている人(彼らの特大ヒット”朝日の当たる家”でエモーショナルなキーボードを弾いていた)ですが、グループ脱退後すぐ、「アラン・プライス・セット」というブラス、サックス・セクションをフィーチャーしたコンボを結成、英国クラブ・シーンでは、R&Bテイストのロック、ポップスですでに知られた存在なのでした。
歌はあまり上手くないですが、英米を通じて編成も珍しく、他の追従を許さない実にユニークなサウンドを聞かせていました。
このレコードはその二枚目なのですが、プライスの音楽人生の中で分岐点となったことが、そこに浮き彫りにされています。
というのも、従来のブルー・アイド・ソウル路線に加え、曲目の半数に渡って米国のシンガー・ソング・ライター、ランディ・ニューマン(今では映画音楽の人という感じですが…)の作品が取り上げられているのです。このニューマンへの傾倒によって、プライスは英国のワーキング・クラスの悲哀などを中心に歌うシンガー・ソング・ライターへとシフトして行き、”英国のニューマン”というキャッチも生まれるようになったのです。
プライスのオリジナルで、少しヒットした「ハウス・ザット・ジャック・ビルト」や「グリム童話」(同アルバムに収録)などにもニューマンの影響がみられます。
こんな訳でニューマンのファンだった私には、ずっとこのアルバムは幻の名盤だったのです。
ランディ・ニューマンは翌68年にレコード・デビューを果たすのですが、興味深いことに「ハッピーランド」という同アルバム収録のニューマンの曲では、後年ニューマン自身の作品でおなじみとなる、ブラスやストリングスのアレンジが施されているのです。ノスタルジックで洒落た、”ニューマン・サウンド”を先取りしているという感じです。
ニューマンの米でのデビュー盤は、一聴するとミス・マッチとも思える、分厚いストリングスをバックにしているのですが、私の推測ですが、彼自身はプライスが演っていたようなバック音楽を引下げて、登場したかったのではないだろうか、と思っているのです。彼は”やられたわい!”と思ったかどうかは分からないですが、数年後ほとぼりが冷めた?頃このサウンド作りが定着するようになったのです。
いずれにしても、ここで聴かれるブルー・アイド・ソウルとランディ・ニューマンのブレンド…私のロックの王道です! これで悪かろうはずがありません。
私は「すぎた」と違って、片意地を張るのは、もうツカレるのでやめにしたのです。素直に”いいものはいい”でいいんです。
主流でも非主流でも聴きたいときに聴けばいい…で、アラン・プライスなのですが…主流なのか、これが? どうも日の当たらない裏側の方が似合ってそう…
「すぎた」のヤツ、まだヤセ我慢しているのだろうか? あまり古いものばかり有難がっていると、時節柄、頭の中にカビが生えても知らんゾ…
いや、ヤツの頭ン中はいつもカビ…”モールド・オン・ヒス・ヘッド”なんだ。人のことを言えた義理ではないが…。



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失ったものはここにある

2017-06-10 13:02:07 | 
今日の時代というのは、ある面かつてないほど、生きやすいようであり、又その裏返しのように今日ほど生きにくい時代は無いのかもわかりません。
これはあくまでも、この国に生きている身からの観方なのですが…
今では、その気になれば自分らしい生き方は出来ると思います。
これには、”何が本当の自分なのか?”という命題も存するのでしょうが、難しいことはさて置き、単純に自分は何が好きで、何に惹かれ、何に生きがいを感じるかという事は、その気が有れば…というよりそういう人は、もう知っているはずのものですよね。”その気が有れば”…ね。とっくにたどり着いていて、その人生を謳歌しているのでしょうね。
こういうことから、どっかで別のスイッチが入って、真我に目覚める、エンライトメントということも起きたりするのでしょう。
だが…観方を変えると、自分がどういう人間で、どう生きていいかわからない、という人も又多くなっているのも事実でしょう。
先日、テレビで莫大な公金を横領した役人の犯人が、全く悪びれずに役人ならず、役者のように演じていたかの如くに、取材に応じていたのを観ましたが、実にこの時代相というものを表しているように感じました。
このヒトは、きっとヴァーチャル感覚でことに及んでいたのでしょう。
その理路整然と話している表情も、生身の人格というものを感じさせないヴァーチャルなものに映りました。そこからは豊かな教養というものは感じるが、血の通った感情というものは全く伝わってこなかったのです。
今日流行のスピ界のある面では、人格というものを軽んじる傾向が有りますが、”生きたその人間らしさを映し出す”としてのそれを失っているような人間…心、魂を失っているような人間が今日増え続けているのではないでしょうか?
何が自分らしさ、どこに自分が落ち着ける世界が有るのかが見えにくくなっているのです。
私は、”そういう客観的なものなど一体どこにあるのか?”という屁理屈の話などしていません!
理屈が分かったところで、それは机上で語られるようなヴァーチャルなものに過ぎません。
もし、理屈抜きに喜びを持って、自分が惹かれてやまないものに興じていたら、屁理屈なぞ宣ってなど居られません。リアルにそうなってしまうからです。
いくら真理が語られようと、直に、目の当たりに感じなければそのものは生きたものにはならないのです。
例えば、愛というものは、実証されなければ、有るとか無いとか論議されなければ、認められないものでしょうか?
それは自分自身が感じる他ないものです。しかし、それはどこかに見つけようとしなくとも、本来から与えられているものです。
多くは社会人、仮面としての自分(多くのスピで、捨て去ろうとしているのは、この本来的でない人格のことでしょう)を演じ続けなければならないことで、フタ閉めされてしまったものでしょう。
”ホントは好きなのに、惹かれているのに、それを捨てないと、良い大人、社会人にはなれない、成功出来ないんだ…”と、どっかからの声に屈服して…
そしてもっと不幸な事に何と多くの人は、一度捨て去ったもの、フタ閉めされてしまったものは、二度と戻らないものだと思い込み、決め込んでいることでしょう…本来からあるものは消えてゆかないものなのに…
私はとっくに置いてきたと思っていた、”愛にあるもの”が呼び覚まされることも有るし、今生で味わったことの無い無条件の愛というものにも預かったこともあります。(夢の中でもあります)
フタ閉めというものは徐々に思いを重ねて、重みを加えて行くものですが(ズルズルとハマっていく…)、フタ開けというものは一瞬で行われます。
愛は、どこにも消えてゆかず、元々有るもので、思いというものを超えているから…その気さえあれば開き、涸れた泉にも活水が蘇るのです。
愛…特に最愛のものを見出した時、失われた自分自身を取り戻せるのです。

今日では、ネットなどを通じて、ここに居ながらにして、自分らしい生き方というものを見つけることが出来るのかもしれません。
だけど、それは情報だけなら、頭の中だけでヴァーチャルな自分の人生、自分の世界を作り出しているだけと言えるでしょう。
しかし、その媒体によっても時に惹かれてやまないものが呼び覚まされることも有る…
それは正にパネル越しでない、この身に起きていることに違いありません。
ここに無くしてどこにもないもの…愛にある自己…。









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意識はどこにある

2017-06-08 17:27:57 | 意識、照明
自分では自分のことが分からない…
それは、限られた自分が限られた自分を見ようとしていることだから…
何が真実で、何が虚偽か…この真偽がごっちゃになった世界に自分が居たままで分かるだろうか…
意識が自己の限界内にあるままでは何も見えてこない…
観照する自己でなしに、観照している超越的他者の目…照明、イルミネーション…

スピでも哲学でも、これについて言及されることが、実に少ないのはどういうことなのでしょうか!
大方は、一生懸命自分で何かを極めようとしているようです。
自分って、そんなに何でも分かってしまうものなのですか?
でも、昔から、知らず知らずにこの”すべてを見通す目”のことは気付かされていたのでしょう。
”お天道さんが見ているぞ!”とか言って…
フリーメーソンのシンボルになっている、あの”一つ目”も元来はこれを象徴しているのでしょう。(しか―し…あの蛇が曲者だ!)
あの恩寵の光の照射を受けると、確かに一つの目で見られている感じになります。
二つある、相対というものが超えられてしまうから…これは思考が超えられているという事です。(何故、この現世で生きている我々には、目が二つあるのかが分かってきそうです)
気付きといいますが、誰でもその瞬間思考が超えられた、あるいは停まったように感じられるのではないですか?
この気付きにこそ、超越的他者性というものが顕れているのが分かるでしょう。(あれは降りてくるものなのでしょ…)
気付きとは、例えば思いが何かに付着している…捉われた状態から”離され、放され”たところにやってくるものですね。
そこに、縺れ、重圧などから離してくれるもの、解き放つもの、超えさせるものがハタライているのです。
照明といい、気付きといい、それに預かると、とても意識的になっているというか、明晰に、深くなっているように感じられます。
この状態にある時、”本来の自己”というものを実感するのです。
意識というのは、どうしても自分の中に、(特に問題だらけの頭の中に)あるように思い込まされているものですが、より深い意識というのは、上から降りてくるのでしょうか? 自分以外のどこかにあるんでしょうか?
これが意識の変容ということなのですが、やがて自分の中とか外とか境界が無くなるようになります。
するってーと…意識というのは、一体どこにあるのでしょうか?
ユニークな瞑想家の故・山手国弘さんは、”意識は空間にある”と言っておりましたが…(私は一度だけその瞑想会に参加した事が有りますが、あれは一種のイメージ瞑想なのでしょうか?)どうしても、自意識が空間にあるようなことを思い描いてしまいます。
しかし、実はより自己を明らかにさせる意識というのは、自意識を超えているのです。
自意識から離し、解き放つハタラキによってそうなるのです。
離れ、放たれていないと、小我と大我が同化されて、自己の本源に気付くことが出来ません。
この事が蔑ろにされると、永久に自己の本源、真我なるものを見失うことにもなりかねなくなるでしょう。
その気付きのハタラキの出どころは、この見える自分には無いと言わざるを得ません。見えざる領域に淵源があるのでしょう。
そこには境界というものが無くなり、あらゆるものとつながるから…
と言っても、この限られた自己が直ちに一者になる訳でも無く、一者と切り離されているものでもありません。曰く言い難いものですが、一如のものといったものでしょうか?

神というものは、何故多くの人から超越した存在のように認識されているのでしょうか?
何故、お隠れ給うたのか?…再び一つになるため…。









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ニュートラルなもの

2017-06-07 18:03:28 | 意識、照明
私はこれまでいくつかの宗教、精神的道と出会って、それに共鳴して何度か信者とは言わないまでも、その道に自分の心の拠点を置こうとしかけたことがあるのですが、その都度自分の意志でか、別の意志でか、その固まりつつあった心の牙城が壊れてしまう事態になってしまうのでした。
結局人生で私が自覚している限り、信者という生き方をしていたのは、まだ本格的な求道に目覚めていなかった、学生時代の新宗教においてだけだったのです。
つまりは特定の教えにも修行にも就こうとしない、就かしてもらえないようなのです。(これを私の背後で促しているものが何時も認められました)
これは精神がニュートラルな状態に戻されるという事でもあろうかと思います。
ニュートラルとは、いずれにも偏らない、中立をキープすること…何だか、中途半端でどっちつかず…という印象を受けますが、私の内部はこういうこととは裏腹に、トコトンまで進まないと気が済まないところもあり、実際、中途半端な意識では絶対に預かることの出来ない事態にも導かれたのです。そして…この際では、特定の教えや修行などというものは、全く入り込む余地などありません。特定の道に依拠していても、それらが直接、あの圧倒的な現臨に即応するわけではありません。
人生の裏側へと踏み入れてしまう際には、それらはすべて手放さざるを得なくなるのです。
これを意識が”ゼロ地点”に戻されることと言ってもいいでしょう。
ニュートラルであることというのは、本来は、中途半端どころか、こういう事物の真っ中心的なものに関わることなのではないでしょうか?
我々はものの本源的なものへと回帰しようという要求があり、またそれに還元させようとするハタラキがある…
真実の自己とは本来の自己のこと…真我の目覚めとは、本源的自己へと還元されるという事でしょう。
この本源的ハタラキは、あらゆる不調和、不自然な状態から本来あるべき状態へと還元させる作用があるようです。
しばしば、心身の癒しに結び付けられるのもこの理由が有るのです。
シャカも、キリストも、老子も、特定の宗派を立てようとしたのではなく、宗我的なものに捉われていた、時の主流の宗派に対し、このニュートラルなものに帰ることを説いていたのでしょう。これが又、後世になって教団形成に伴って、人為的な教義、修行などが設えるに至ってしまったのです。
特定の集団に合わせた教え、修行、儀式…普遍性に開かれない、相対化され、分離された集合体ばかりが垣根を作って割拠して行きます。ニュートラルなものから、客観的集団にアダプトされたそれらのものは、一人一人の自己へと還元されて行きません。
しかし、自己に向かわない道などというものがあるでしょうか?
例えば禅というものがある…禅といっても禅宗のそればかりのことではありません。どうも座り方とか公案のことなどが想起されるようですが、禅とは本来それらを超えた、ニュートラルなものであるハズです。その原義である”ディヤーナ”(三昧)という事自体、人為的なものから離れたニュートラルな状態を言い表しているのでしょう。(私がブッダやボーディ・ダルマなどの”原始”の禅に想起されるものは、こうしたものです)
又、巷にはこれを表す適当な言葉が無く、一部で”霊動法”と言われている所謂行法がありますが、その一種である、ラティハンを伝えるスブドなどでは、魂の段階的進化に関する教説が説かれていますが、勿論そのようなものを全く知らなくても、ラティハン自体は誰にも受けられるものです。
実際、そのような特殊な教えはスブドにおいてしか信じられておりません。
その修練にあたっては、あくまで各人に自然に、内的に発現し、理解されるものにゆだねられるべきで、いたずらに抽象的観念事に偏ってしまっては、意識にニュートラルでないものが持ち込まれる事にもなりかねません。
もっとも指針、手引きとなるものも有っても然るべきだと思いますが、あくまでも根本にあるものは、我々の限られた意念でなく、ハタラキ自体による”形なき教え”であるべきです。
ことさら人為的な教えやメソッドで固めたりしないで、一人一人の自己へと還元されることで、普遍性へと開かれていくでしょう。
自己の本源にあるものは、あらゆる相対を超えて、普遍性と切り離されていないものだから…。













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