人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

純粋意識を開く

2021-12-07 11:43:44 | 意識、照明
"人の生は、考えているか、行動しているかでなく、最も重要なことは、意識しているということであるi"
このことは、いくら強調してもし過ぎることはないでしょう。
人生のことも、世界、宇宙のこともあなたが意識している通りのもの、と言っても過言ではありません。
だから、意識的にならなければならないのですi...って、これは毎度のことながら正確な言い方ではないのです。
意識的になる、と動詞的にはどうしても語れない..."意識している"という方がホントに近いでしょう。
そういう状態がずっと続いているから生きていられるのですからね。つまり、それは全く自然な状態ということです。
だから、自ずから意識が向けられるのです。向くというのは、考えている自分から言えることなのですが、向けられるものがあるからそうなるのです。
それは現臨、神的なものとも言えるし、純粋意識にある私とも言えるでしょう。ラマナ.マハルシなどによれば、純粋意識は真我と結び付けられています。
では、純粋でない意識というものがあるのでしょうか?...それは、例えば意識と思考との区別が明瞭になってない場合のことでしょう。
意識を純粋意識状態に向けるとか、ヤヤコシイ、微妙な言い方をしてしまうのもこの理由からです。
とにかく、意識というのは、考えても分からないものなのです。...ある面では、そのように思考と分離されることが無い反面、ハッキリ分離される、されなきゃならない面もあるi...意識的になっている状態とは、思考から離れるということに他ならないのですから...
この違いがハッキリしていないと、純粋意識が開かれることはないでしょう。
言い換えると、考えている自分の限界を弁えると言うことです。これは、考えすぎることに苦しみを感じたら自ずと分かることでしょう。
純粋意識にある私とは、考えている私から見れば、神みたいなもの、絶対他者なのだi...しかし、それが私そのものだったi...ということに目覚めるのは、思考から離れてみて分かることなのです。
ここで注意する点は、思考を否定したり、無くそうとすることじゃない、ということ...思われた自分をどうこうすることよりも、それを超えたものを意識する(微妙?)ということです。主導となるものは、あくまでそちらの方なのです。
というよりも、そういうものに出くわしたら、否応無しにそうなるのですが...
最愛のものに出くわしたら、あなたは何も考えられないし、意識はそのものに夢中、捉えられてしまうでしょう。
意識が向いちゃうとか、意識的になっている状態は、誰しもが自然に経験しているものではありませんか?
出くわす機会が無いのであれば、意識的になってみる...それは、思考とごっちゃになっている意識状態の自分に、純粋意識状態の自分が顕わになる通路を開くようなことです。顕わになることが、即ち出くわすことに他なりません。
こう言うと難しくなる...だから、単純に祈ることと言ったりしているのです。苦しかったら祈るi...
一度、通路が開かれたら、もう自動的に意識的になってしまいます。
いつも、どうやったらそうなるのか?って意識だか考えているだかしているのですが、どうしてもそうなってしまう...
ほら、どんよりとした曇り空が自動的に、晴れてきて純粋な日が差してきた...
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最も逆説的なこと

2021-12-05 10:14:12 | 求道、探究
私はよく"最善のもの、最愛のもの"、といった表現を使いますが、私の場合、これには逆説がありまして、それは、"これが最善、最愛のものだi"、と"思っているもの"じゃない、ということです。
だから、何か問題があったとして、それに対処すべく、"これが最善の道i"と考え出されたものは、必ずしもそうじゃない、ということです。(それは、そういう時処限定の最善の解決策といった意味合いのものでしょう?)
要するに、私にとって最も...であるものとは、思いを超えたもののことを言っているのですi (あなたにとってどういうものなのかは知りません)
それは、現実には存在しないものなのか?、何たる逆説i?
取っつき安いという意味で、ここでは、最愛のものについて触れてみます。
それは考えていても分かりません。それが何か、ということは、それに出くわした時に分かります。
思いを超えて、そのものに全身全霊が惹き付けられてしまう...理屈じゃ無いってことです。
選択の余地が無くなるとは、そういうことを言っているのです。選択した上で決められることは私には次善以下のものにすぎません。
いつ出くわすかは分かりません。それは考えても分からないものだけど、意識はされているものだと思いますよ。
というよりも、意識の根底にずっと息付いているものなのではないでしょうか?
そうでないと、多分その出会いの瞬間は分からないでしょう。(この意識次元のことも、私は出くわしたことで分からされたのですが...)
こういう風に書くと、"ははーん、あなたは神のことを言っているのだな?"、と取る向きもおられるかもしれませんが、神的なものであるとはいえ、そうとは限りません。"宿命の人"かもしれません。どっちみち、出会った瞬間、考えていたことが吹っ飛ぶから神的なのですi
そういうことは皆ここにある...意識に根付いているi...ある、ある...あるともi、最愛のもの...考えなくとも、感じられる...
私の内に常にあるんですが...それが顕わになる、出てくる、出くわすということが、この現れた世界~現実世界の宿命なのではないでしょうか?
意識に根付いている最愛のものは、出てくる、現れることになっているのですi...だから、こうして書き表せる訳で...
しかし多くの人は、その通路を閉ざしたままにしているようです。表層の思いでフタをしている...
人間は考えているか、行動しているかだけじゃないのです。もっと根本的には意識が生きているのです。
そこに常に火種がある...いつ点火され、燃え出るとも分からない...
だから、祈らされている、祈らざるを得ない...これは、私が考えてることじゃない、だから選択の余地の無いことなのですi

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ラマナ.マハルシ「あるがままに」

2021-12-04 09:57:55 | 人生の裏側の図書室
「あなたが知りたいと探し求めているのは、他ならぬあなた自身なのだ」
(ラマナ.マハルシ「あるがままにーラマナ.マハルシの教え」/ナチュラルスピリット刊)

この本は、2005年に発刊されて以来、何度となく読み返されている愛読書なのですが、満を持して(?)取り上げてみたのでした。
何故、これまで取り上げなかったかというと、理由は簡単、多くの人が取り上げているからです。
なるべく埋もれた、世に知られていない書物を紹介したい、というヘソ曲がりのポリシーに反するのですが、"魂の読書"という観点からこれを外す訳には行かない次第なのです。
かように、この書は特に多くの瞑想修行者などの間では、バイブルともてはやされているのですが、そうでない私でも、読む度に"この書は私自身のことが記されているのだi"(聖書のイエスの言葉)、との感を強くしてゆくようです。
そうですi、先の理由だけでなく、広くキリスト教などに親しんでいる読者(私がそうi)にも読んで、共感して頂きたいという気持ちもあるのです。
ラマナの本は、3巻からなる大部のものもありますが、この本は項目ごとにコンパクトにまとめられているので、サッと読みたいところから読めるのが有難いです。
実はこの書、瞑想のノウハウのことは、ほとんど述べられてませんし、悟り、真我実現のための瞑想修行の意義といったことすら弾け飛んでしまうようなことにも触れているのですが、ラマナを知るに及んで多くの瞑想家は、その志を挫かれたのではないでしょうか?
だから、あまり瞑想修行と結び付ける必要はありません。
ここには又、知的概念からのみの理解というのはほとんど意味がありません。
分からないものは、分からない...分かろうとすれば、"あるがまま"のものを取り逃がすだけでしょう。
ただ、読み進んでゆくうちに、意識が自ずとラマナの言葉に惹き付けられるのが感じられます。自ずとそうなるというのは、本来性に導かれるということです。
私は最近、何が真理、真我であるか、ということよりもこの"本来性"というものに自然に赴いてゆくようになりました。
本来からあるものには、新たに獲得することも、到達することも出来ない...それは、そうでないものが消えることで、自ずと立ち上ってくる...
"この書を読んでいるのは誰か?、誰のことが書かれているのか?"
私が読んで、私が語っている...
この書は私のバイブルに違いありませんi

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ハート、神、愛

2021-12-02 10:04:35 | 求道、探究
ラマナ.マハルシは、人間の本来性、真我の源は、ハートにあると言いました。
多くの瞑想実修者は、"頭頂"にこそ、そうしたものを求められるとされていますが、どっちが本当なんでしょうか?
分かりませんi...アタシャ、そういう者でないので...
こういう話になると、所謂チャクラと結び付けられるものですが、ラマナは、ハートは特定の部位に限定されるものではない、と言っているのです。
それでいて、それは、胸の中心から右に指二本ばかしずらしたところだ、なんて説明もあったりするから、ヤヤコシイi、分からんi
これは、どうも瞑想実修者用に合わせた説明のようです。
「神、意識の座、皆同じことである。理解されるべき点は、ハートが存在の核心、中心であること、それなしには何も存在しないということである」(ラマナ.マハルシ)
ハートは、相対を超えたものだということです。しかし、何故、特にハートと呼ばれるのでしょうか?...胸に手を当てて考え、いや意識してみようi
すると自ずから、意識がある中心に収斂されてゆくのが感じられます。それと共に安らぎが、そして愛が...胸がきゅん、と。
身体的なレベルで胸にそういうものが感覚されるという訳じゃなく、全身全心全霊が中心に集められてゆくように感じられます。
これがラマナの言われる、ハートのことなのかどうかは分かりません。
しかし、ここ数年それまでよりも増して、この特定のどっかのことでなく、さりとてどこでもいい、というものでもない、ある中心に引き込まれるような感じは覚えられるようになりました。
これが実に前回にも触れた、絶対界と相対界の接触点となるものではないでしょうか?
これは対象を超えた、本来的な愛というものが感じられるようになったことと付節が合わされているようです。
そして、究極の悟りみたいな境地を追い求めるような気持ちも薄れて行きました。
そういうものは、主我的な思いから来る、ということは分かっていて、どうしても離れなかったものが、自然とどうでもよくなってしまったのです。
主我的な思いはハートのうちに落ちて行く...そこにしか落ちどころは無かったかもしれないi...真我の目覚めということに思いを向ける必要もない...自我も真我もない、すべての私の本来性に帰る...
ラマナは、インドの伝統的な教えを背景に持っていたためか、あまり愛というものには言及しておりません。しかし、このハートについての教えは広く普遍的に受け入れられるものがあると確信しています。
という訳で、私には愛そのものと、神、ハートは切り離されないものとなりました...。
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見えないものとの接触点

2021-12-01 10:04:28 | 現臨、ハタラキ
思いが超えられる、至福に与る...こういうことは、いつも言うように、抽象的に思い描くことでなく、具体的に感じられることなのです。
"愛を感じる"、というのも同じことでしょう。
よくスピ界で、全体とか宇宙とかと一つになると、そのように感じられるとか言われるのですが、(感じ方は自由なのでしょうが)私はあまりに漠としていて、そう感じられません。ということは、私はそうなったことがないということです。
そうなったら、おそらく何と一つになったのかも分からないでしょう。
ま、ミもフタもないこと言っててもしょうがありません。そう言ってる人は多分、そういうイメージを借りて、その曰く言い難い感じを表しているのでしょう。
感じるということは、何らかの触れるものを通さなければ不可能なのです。
何かハタラキかけて来るものがある...でなければ思いを超えられる、ということがありません。
そして、何かと一つになるという感じも確かにあるi...それは何か?...それがもっとも肝心なものです。それ無しには何も始まらないi
神だの、真理だの、悟りだのって言ったって、その内実は、このものに触れないことにはただのお話にすぎません。だのに、それを言い表す決まった言葉が無いと言うんだから、世の中どうかしてるi
しかし、これまでの幾多もの、有名無名の宗教的道にある人たちは皆知っていたのではないでしょうか?...霊なるキリスト、阿弥陀如来、観音、OOの神...これら信仰対象として語られるものが、ある種の宗教体験として、各々に具体的に感得、感応道交されたものをかく言い表していたのでしょう。
それは言うなれば、絶対界と相対界の接触点となるものに他なりません。
見えない、捉えることの出来ない世界の消息が、何か一点の穴が開いたようなところから閃光のように接触してくる...老子が竅(きょう~穴)と言っていたものはおそらくこういうものだった、と思われます。
私が現臨と言い表しているものも、こういうものに他なりません。
それは先の通り、宇宙的全体と一つになる、という感じは直接にはありません。しかし、"そのものにあること"で、全体は分からないけれど、どこまでも開かれている、無限につながっている、という感じがあるのです。(この言い回しの違いは色々な意味で結構重要なのですi)
それは又、この自己と切り離されていない...故に"一つですべて"としか言いようがありません。(先の全体と一つになった、という人たちもおそらくこういう消息を伝えているのではないかと思われます)
思いを超えたものは、こちらで捉えることが出来ません。"捉えられる"ということがあるばかりです。
かと言って、何もせずに懐手でいても、多分そうなることはないでしょう。
ただ、意識的になる、広い意味で祈ることは出来ます。
そこで、内なる火種が意識され、自ずとそのに火が付くということに...なるかもしれない。
寒くもなり、火の後始末に心がけなければならなくなってきましたが、霊の火種は絶やしてはなりません。いつ自然発火しないとも限らないですから...
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