"ありのままの自分を受け入れること"
このことは、度々言っているように、精神的な道においては勿論のこと、日常生活、今神経症など心の病を抱えているような人にも、とても有効なことなのです。
というより、そうでなきゃあなたは生きてないでしょ?...
ありのまま...殊更説明しなきゃならないのは全くどうかしてます。
逆に言うと、世の中なんかおかしい、生きづらい、行き詰まっている、問題がいっぱいのように感じるのは、ありのままになっていないということでしょう。だから、それを変えてありのままを受け入れなければならないのです...って、そうじゃないですよi
自分が弱く、問題だらけで、どっか病んでいたら、その自分を受け入れるということです。そこからしか何も開かれてこないでしょう。
自分を変えなければi...と、自分の力でそうしようとする...一時は信念の力みたいなもので、変わったように感じても根本的には変わらない...でも"変わらなきゃi"、という思いが先走り、その思いが重くのし掛かる...そして対人にも"自分は変わったのです、進んでいるんです、正しい方向に..."になどとポーズを取る、そして自分自身をも誤魔化し続ける...
変わらんのなら、変わらんでいいじゃないかi、そうなっちゃってんだから...お天道さんに投げ出すつもりで自分に向き合ってみる...お天道さんは自分の一念で変えることは出来ない(お"不動"さんの自分も)、ゆだねるしかない...これは、一種の開き直りみたいなものです。
そうです。そうすると、何かが開かれる感じがして来ませんか? 自然に...(こういう神経症的プロセスは、私自身が経験していることに他ならないことで、私は自分で自分を変えようとして、変わったことなど一度もありませんi)
日光に照らし出される、照らされる、投げ出されるまんまが、ありのままを受け入れること...そう、これは私が"照明に与る"、と言っていること、ひいては"現臨にある"、ということと同じことを言っているのです。
ここでは分かり安く、ただ、受け入れること...しかし、ありのままでない状態なことの多い、今の世の中にあって、こんな当たり前であることが困難になっているのかもしれません。
自分で思い、自分が行動しなきゃならないと、その思いが強く、弱い、ダメな自分を受け入れられない...というより、罪の意識がそうさせるのか、それに向き合うのを拒み続けているのでしょう。
今や、自己否定の、他者も否定される、行きどころの無い、地獄の思いでいっぱいi...救いようのない世の中ではないかi...強がりのポーズなんかしてる場合じゃないですよi
もう、自分を超えたものに寄り頼むしかないのではないか?(いつまでも救いを求めるのは弱い心だ、とか思っている人間には永久に分からないでしょう)
というか、そうなっているからこそというか、私は、日々そういうものを呼び求めれば、すぐ応答してくるようにも、見えない導きが我々に近しくなって来ているのを感じてこれを書いているか、書かされている次第なのですが...神を受け入れることは、自分を受け入れることであり、逆も又然りなのです。
神の恩寵の光は、ありのままの自分を映し出すものに他ならないから...ありのままの自分とは、顔を背けたくなるような自分ばかりじゃなく、まるごとの、すべての自分のことですよi。
神のことと自分自身のことは、ますます切り離されないもののように感じて来てなりません。
このことは、度々言っているように、精神的な道においては勿論のこと、日常生活、今神経症など心の病を抱えているような人にも、とても有効なことなのです。
というより、そうでなきゃあなたは生きてないでしょ?...
ありのまま...殊更説明しなきゃならないのは全くどうかしてます。
逆に言うと、世の中なんかおかしい、生きづらい、行き詰まっている、問題がいっぱいのように感じるのは、ありのままになっていないということでしょう。だから、それを変えてありのままを受け入れなければならないのです...って、そうじゃないですよi
自分が弱く、問題だらけで、どっか病んでいたら、その自分を受け入れるということです。そこからしか何も開かれてこないでしょう。
自分を変えなければi...と、自分の力でそうしようとする...一時は信念の力みたいなもので、変わったように感じても根本的には変わらない...でも"変わらなきゃi"、という思いが先走り、その思いが重くのし掛かる...そして対人にも"自分は変わったのです、進んでいるんです、正しい方向に..."になどとポーズを取る、そして自分自身をも誤魔化し続ける...
変わらんのなら、変わらんでいいじゃないかi、そうなっちゃってんだから...お天道さんに投げ出すつもりで自分に向き合ってみる...お天道さんは自分の一念で変えることは出来ない(お"不動"さんの自分も)、ゆだねるしかない...これは、一種の開き直りみたいなものです。
そうです。そうすると、何かが開かれる感じがして来ませんか? 自然に...(こういう神経症的プロセスは、私自身が経験していることに他ならないことで、私は自分で自分を変えようとして、変わったことなど一度もありませんi)
日光に照らし出される、照らされる、投げ出されるまんまが、ありのままを受け入れること...そう、これは私が"照明に与る"、と言っていること、ひいては"現臨にある"、ということと同じことを言っているのです。
ここでは分かり安く、ただ、受け入れること...しかし、ありのままでない状態なことの多い、今の世の中にあって、こんな当たり前であることが困難になっているのかもしれません。
自分で思い、自分が行動しなきゃならないと、その思いが強く、弱い、ダメな自分を受け入れられない...というより、罪の意識がそうさせるのか、それに向き合うのを拒み続けているのでしょう。
今や、自己否定の、他者も否定される、行きどころの無い、地獄の思いでいっぱいi...救いようのない世の中ではないかi...強がりのポーズなんかしてる場合じゃないですよi
もう、自分を超えたものに寄り頼むしかないのではないか?(いつまでも救いを求めるのは弱い心だ、とか思っている人間には永久に分からないでしょう)
というか、そうなっているからこそというか、私は、日々そういうものを呼び求めれば、すぐ応答してくるようにも、見えない導きが我々に近しくなって来ているのを感じてこれを書いているか、書かされている次第なのですが...神を受け入れることは、自分を受け入れることであり、逆も又然りなのです。
神の恩寵の光は、ありのままの自分を映し出すものに他ならないから...ありのままの自分とは、顔を背けたくなるような自分ばかりじゃなく、まるごとの、すべての自分のことですよi。
神のことと自分自身のことは、ますます切り離されないもののように感じて来てなりません。