人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思考の源

2021-12-09 11:50:00 | 求道、探究
あなたが精神的目覚めに与り、本来の自分を取り戻すのであれば、考えてはいけませんi
...なーんて、私など、そう言われたらますます考えてしまいますよi、思いのガンジガラメにハマります。
ずうっと意識的になっている、というのはラマナのような人の話であって、私は普段はとにかく考える、雑念に囚われる人なんです。...そのことで昔から苦に感じることがあるから、考えることの限界、それが超えられることで救われる、ということが分からされるまでです。
んで、ああいう契機ってのは、考えることをやめようとしなくたって、自ずとやむのですi...宗教やスピではとかく思考を悪者扱いするようですが、それ自体が悪かろうはずなどありません。
私の知り合いにも居ますが、"直感が第一、行動あるのみ..."なんて短絡的にやってたら取り返しのつかないことになってしまいますよi
だから、よーく考えることも必要なのです。深~く...沈思黙考とか言う。すると..."あれえ、何も考えられなくなってしまったではないか?"、ってことないですか?
考えているようだけど、考えてない...というか、思考はしてないのだけど、別の思考が自ずと浮かぶよう...う~ん、これは考えさせられる...おおっ、それだi
"考えさせられる"という感じ。考えている自分を超えて、こういう感じのものがハタラキかけている...表現は適切でないかもしれませんが、これもある種の思考ではないかと思います。といっても通常思われた思考でない、超思考のようなもの...そこではもはや考える私が主体では無くなります。
深~く考えようとして、考える私がいつの間にか、私を、思いを超えたものに取って代えられてしまうのです。
それはもとより、通常の思考ではないが、言わばその依って来たる源のように感じられます。
ルドルフ.シュタイナーなどは、自己認識の道とかで、よく思考について語っていますが、訳されたものでは思考としか書いていませんが、これに触れているのは確かなことでしょう。
又禅やヴィパサナー瞑想などに代表されるように、仏教全般で重視される仏智とか般若智といったものとも関わるものと思われます。
よく巷では、考えて、考えて考え抜いた末にそういうものに与るとか言いますが、必ずしもそうなるとは限りません。そうなる前に頭がパンクするかも分かりませんし、考えなくたってそうなることもあります。
そして、これもよく聞くことですが、こういうことになっている時、よく"おおっi"、とヒラメキがあるものです。
それは思考であって思考でない...それが通常の思考と分かつ重要な点は、そこにある種の感性が伴っていることが揚げられます。
これは、あの天来のヒラメキを感じた人なら分かることでしょう。源にあるものほど分割出来ないものなのでしょう。
んで、どうしたら考える私が、"考えさせられる私"にシフトするのかは、毎度のことながら分かりません。
考えることばかりじゃなく、感じることも意識したらいい...かもしれない。



コメント (1)
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