人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本来的な祈り

2021-12-13 11:24:38 | 祈りと瞑想
私は何度となく、精神的道を歩む上で特定の方法に依拠せず、ただ祈りというものに親しんできた、と言ってますが、これは祈りはそうした方法じゃない、ということを言っているようなものです。
それはそうだi、そういう方に向かわせるものあってのものであり、こっちをどうしよう、こうしようというものじゃないのだから...
意識が自ずと向いてしまう...そして向かわされるものに、神々しさを感じるのか、自ずとこちらの頭が低くされ、自分が後退させられるようになる...
敬虔な心...これの無いところに祈りなど生まれないでしょう。
これは現実に意識がそのように在らしめられる、ということを言っているのであって、そうあらねばならない、とかモラルのことを言っているのではありません。
自ずからなる内催しのことを、外的に強いられるもので、片付けられてたまるものか、ってんですよi
自分を低く、引っ込めさせずにおれないものがあるi...そして思いが超えられ、そこから顕わになるものへと化されてゆく...
そこに今生では味わえないような平安があるi...これは概念だの、モラルだの、方法だの、あらゆる人間的思いに依っては絶対に分からないものなのですi
何故、そのように自分を引っ込めざるを得なくなってしまうのでしょう?...それによりあの御方がお出ましになられるからに他なりません。
その通路が開かれるのです。これはもう神の、真我の実現みたいなものではないか?i
"祈ったからといってそんなことになるのか?"、だって?...ならんでしょうi
祈りというものを何かの手段にしている限りは...私が居て祈る...そう決められているから祈る...そんな頭の高い、デモ信心のような祈りに神は応えるだろうか?...通路を塞ぐマネをしているのではないか?
勿論、祈って、どうこうなるってことは分かりませんよi...しかし、意識が向かわさせられる、ってことは決定的なことなのです。
そして頭が下がって、祈り心地になる...もう、分かりますね、何だか幸せになった感じになるのが...
少なくとも、思いを超えた、神的なものにつながる通路は開かれている、と言ってもいいでしょう。
祈りが方法、手段じゃないということは、そういう中途の段階を超えて、直ちに"本来の在り方"に引き戻されることはあり得ることでしょう。
取っ掛かりとしては、やはり"祈ろう"、ということはあるでしょう。祈りから始めよう、と。
決まった祈りの言葉を称えるということもあるでしょう。
しかし、意識の在り方次第によっては、本来、願っていたもの(ゴール)が開かれてしまうこともある...かもしれない。
神的なものが主導となれば、もう、始めも終わりも無くなるでしょう。
自己の本来性が開かれる...これが本来的な祈りなのです。
神は、神とは別のものを得るための手段とはなり得ない...神そのものを求めざるを得ない...そこに真の幸福があることを知らずに思わされ、祈らざるを得なくなるのでしょう。


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あなた本来の道

2021-12-12 09:57:15 | 求道、探究
精神的な道を求める上で、特にそれが具体的に悟りや神と一つになることを求めるということになれば、そのための特定の教えや方法を探し、それに則ることよりも、意識の在り方に留意(そのことを意識する?)した方がはるかに重要かと思われます。
といっても、そんなん掴み所が無くてピンと来ないと思われるかもしれませんが、これは自分が何に意識を向けているか、もっと単純に何が好きか、ということに気付くということなのです。
ここがハッキリしていないと、自分がすでにある教え、方法で修行し続けているとして、ずっと"本来の在り方"からズレた方向に行ったまま気付かずに、ズルズルと無駄な人生を送るハメになりかねなくなるでしょう。
ことに、そういうものが慣習化してしまうと、中々そこから離れることが難しくなります。
もし、あなたが"私はただただ、神に心が惹かれ、求めずにおれないものを感じるi"、というのであれば、このことは説明を要しないでしょうし、特定の方法を探す必要もないでしょう。
とにかく、意識は神に向けられる...どんな神にか?...何教の神か、理念上の神か...、ということを問題にしているのは、神についての自分の考えに意識が行ってるのであり、神そのものには向けられていないのです。
そう、ここでは、単純に自分が惹かれてやまない神そのもののことを言っているのです。
あなたは、直接神につながらない諸々の想念に囚われることがないでしょう。
あるのか無いのか分からない霊界のことや、超能力のことや、前世、神と敵対する闇の勢力、陰謀のことなど...
"神こそあるのかどうか分からないではないか?"...いいや、あなたの意識は、すでにそこにあるのではないか?、現に神に捉えられているのではないか?...あなたは神信仰に囚われているのではないi
あなたは知っているはずです。諸々の想念に囚われ、それに固着してしまうことは、あなた自身の神が、あなたの実存を通して現れる通路を塞いでしまうということを...
神は全く思いを超えている...どこまでも思いは神に開いていなければならないことを...
あなたは又知っているはず(私は中々気付かなかったが)...悟りや覚醒体験に囚われることは、あなたの神を見失うことになるということを...
神をおいて一体どこに導かれるだろうか?...こうしたすべての気付きは神から来るのではないか?
意識的になっていることは、気付きと共にあることに他なりません。
あなたが気付いた時、思いは超えられ、超えたもの~神と共にある...
気付きという法灯無しに、どうして暗夜の道を歩むことが出来るでしょうか?
もし、道に迷ってしまったとしても、そこで踏み留まることが出来ます。軌道修正をすることが出来ます。
この迷いの岐路に立たされた時、惰性に任すか、あなたの神に任すかですべてが決まってしまうでしょう。
たとえ、どんな教え、方法があったとしても、それは所詮他からの借り物に過ぎません。
借り物に縛られ続ける人生などもう沢山ではないかi
人の生とは、"直"に生きること以外に何があろうかi
あなたの最上の、確実な道は、あなたに本来から与えられた道に従うということではないでしょうか?
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現臨と霊体のようなもの

2021-12-11 10:37:47 | 現臨、ハタラキ
前回、"考えることを深めていったら、自分が考えるのでなしに、思いを超えたものによって考えさせられてしまう"、なんてこと書いたのですが、こういうことを最初に感じたのは、似たようなものですが、自分で自分を見つめる、ということから、いつの間にか、それによって"見つめられてしまう"、ということになってしまったことからでした。
これは自己観察というものと区別して、"照明"と呼んでいるのですが、要するに意識の中で主体が、考える私からそれを超えたものに明け渡されるということを表しているのです。
ここで、その超えた、あるものとは真我なのか?、ということを仄めかしているのですが、何が真で、何が偽かは分からないですよi(仄めかすとは、即ちボカすことですi)
何だか分からないけど、現実に意識がそっちに向けられてしまうんだからしょうがないi...そこに愛、平安、リアリティがあるから...
リアリティ...現実は受け入れなければならないi...その真実性は、考える私よりもはるかに直接的に在らしめられる、というところに求められます。これはもう理屈じゃない、理屈で分かったことなど幻みたいなものだi...愛、平安から切り離された如何なる理的なものは、その現実から浮いてしまわざるを得ません。
その超えたものとは何であるか?...それを存在論、実体論で解くことは不可能です(だからボカすに限るのですi)。
それは、私がいつも"現臨"と呼んでいるものとつながりがあるのは言うまでもありません。
その実体はもとより分かりませんが、存在論に譲歩して"何か在るもの"のように表すことは出来るでしょう。例えば、"霊体"とか...
そう、人間存在は、肉体だけあるんじゃなくて、幽体、霊体、神体と順々に微細になって行くんですよ~、ってこの霊体がどっかへ消えちゃいそうです。(元々見えないんですけど...)
現臨~霊体というものに真我というか、より本来的な私を求めるのであれば、それはそのように分割出来なくなるでしょう。
正に、肉体とOO体という風に分割されるというのが、この物質次元の観方、感じ方なのではないでしょうか?
この"現臨体"(新造語)においては、見える肉体と見えない何かの境界が無くなってしまうのです。というか、そういうものが"人生の裏側"の観方、感じ方なのですi
ある方は、この"霊体のようなもの"のことを感じさせずにおれない、あるもののことを"空体"と呼んでいるのですが、全く同様のことを述べられておられました。
このように境界が分からない、霊肉一如のようなものなのだから、霊体のようなものが真実で、肉体は本来無い、幻だ、などと決めつけられるでしょうか?(実体論のような解き方は、こういう誘惑が付きものなのですi)
そのものにある時、自分の本来性に帰ったように感じられるところから、その自己を全包括したような霊体のようなものに本来性を求めることが出来るでしょう。肝心なことは肉体もそれに包括されてある、ということです。
そして、そこから切り離された時、本来性、真実性(リアリティ)から浮いてしまうということなのではないでしょうか?
肉体とは、霊体的な包括的な自己の"現れた部分"と観ることも出来るでしょう。
宗教、スピにありがちな偏った観念に囚われて、肉体を蔑視、否定することは、本来の自分に目覚める道を閉ざすことにつながるでしょう。
この目に見える現実に生を享けたという、肉体を通さなければ、本来性に帰ることは不可能だという、当たり前の現実に目覚めなければ、夜寝て、朝目覚めることすら出来なくなるでしょう...。


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思考の源

2021-12-09 11:50:00 | 求道、探究
あなたが精神的目覚めに与り、本来の自分を取り戻すのであれば、考えてはいけませんi
...なーんて、私など、そう言われたらますます考えてしまいますよi、思いのガンジガラメにハマります。
ずうっと意識的になっている、というのはラマナのような人の話であって、私は普段はとにかく考える、雑念に囚われる人なんです。...そのことで昔から苦に感じることがあるから、考えることの限界、それが超えられることで救われる、ということが分からされるまでです。
んで、ああいう契機ってのは、考えることをやめようとしなくたって、自ずとやむのですi...宗教やスピではとかく思考を悪者扱いするようですが、それ自体が悪かろうはずなどありません。
私の知り合いにも居ますが、"直感が第一、行動あるのみ..."なんて短絡的にやってたら取り返しのつかないことになってしまいますよi
だから、よーく考えることも必要なのです。深~く...沈思黙考とか言う。すると..."あれえ、何も考えられなくなってしまったではないか?"、ってことないですか?
考えているようだけど、考えてない...というか、思考はしてないのだけど、別の思考が自ずと浮かぶよう...う~ん、これは考えさせられる...おおっ、それだi
"考えさせられる"という感じ。考えている自分を超えて、こういう感じのものがハタラキかけている...表現は適切でないかもしれませんが、これもある種の思考ではないかと思います。といっても通常思われた思考でない、超思考のようなもの...そこではもはや考える私が主体では無くなります。
深~く考えようとして、考える私がいつの間にか、私を、思いを超えたものに取って代えられてしまうのです。
それはもとより、通常の思考ではないが、言わばその依って来たる源のように感じられます。
ルドルフ.シュタイナーなどは、自己認識の道とかで、よく思考について語っていますが、訳されたものでは思考としか書いていませんが、これに触れているのは確かなことでしょう。
又禅やヴィパサナー瞑想などに代表されるように、仏教全般で重視される仏智とか般若智といったものとも関わるものと思われます。
よく巷では、考えて、考えて考え抜いた末にそういうものに与るとか言いますが、必ずしもそうなるとは限りません。そうなる前に頭がパンクするかも分かりませんし、考えなくたってそうなることもあります。
そして、これもよく聞くことですが、こういうことになっている時、よく"おおっi"、とヒラメキがあるものです。
それは思考であって思考でない...それが通常の思考と分かつ重要な点は、そこにある種の感性が伴っていることが揚げられます。
これは、あの天来のヒラメキを感じた人なら分かることでしょう。源にあるものほど分割出来ないものなのでしょう。
んで、どうしたら考える私が、"考えさせられる私"にシフトするのかは、毎度のことながら分かりません。
考えることばかりじゃなく、感じることも意識したらいい...かもしれない。



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実存

2021-12-08 10:08:57 | 哲学・思想
実存。...
私はここで"実存とは何ぞや?"と、哲学的、抽象的に語る気など毛頭ない。
そうすることで、私の実存から切り離されてしまうだけだろうから...
実存について、私について考える...何についてだろうか?
そう考えている私はここにいるi
実存は、この私と離れてはあり得ない...
実存とは、考えている私のことだろうか?...私は思考なのか?、感情?、肉体?、それともあるかどうか分からない霊体?
私の実存は、何ものにも分割することが出来ないi
ただ"私は在る"という感覚がある。
実存は、この実存感覚と共にある、ということは言えようか?
この状態は、真我である状態なのだろうか?
真我、自我、偽我、神に等しき我...我は一体いくつ分割されるのだろうか?
真我とは、今の私がより高きに進んだ状態なのだろうか?
この私の実存から離れて一体どこへ進んでゆくというのだろうか?
それとも、ここから離れて堕落する自分が居るのだろうか?
どんな自分だろうと..."私はここに在る"
あの世、(人が信じている)神、何かの霊的実在、何かの陰謀...
これらと実存と何の関わりがあるだろうか?
実存から離れて思いは、あちらこちらに馳せ回る...だんだん実存から遠退いて行く...
これは実存からの堕落と言えようか?
実存とは私以外の何ものも存在しないということだろうか?...唯我、独我...
神も、如何なる超越的なものも、最愛の人も...
しかし、もし、"それら"が私の実存に飛び込んで来たとしたら...
それらも私の実存になってしまうのではなかろうか?
逆に"私のみがここにある"と、固執される時、その私は実存から追いやられてしまうのではなかろうか?
私だけの私は非実存に閉じ込められる...そこから超えせしめるもの無くしては...
だから、私を超えたものと実存は切り離すことが出来ないi
実存は何ものにも、自他にも分割することが出来ないi
この意味で"私の実存しかない"のかもしれない...
私はどうしたって、ここから離れることなど出来ないi
そこに愛、平安があるから...
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