私は、人からは神を信じている人間に思われているのかもしれません。
しかし、ホントに神を信じている、と言えるのだろうか?
私も実際に聞いたことありますが、神が見えるのなら信じる、という人も多いのかもしれません。
では、いつも書いていることと逆とも取れるようなことを想像してみようi
目の前に神が現れたi...ちゃんと人間の言葉をしゃべる...自分がどういう存在で、どう人間と関わっているかなどについて語り出した...
私は信じられるだろうか?...わが目を疑うべきじゃないだろうか?...こういう現象的なことだけ取ってみたら、普段神(的なもの)に意識が向かわせられていることと直接つながってきません。
しかし、私は神が仮に現れることもある、ということは信じています。仮にということは絶対視しないということです。そういうところから迷信が生まれるのです。
それでも、その神の顕れが、その言葉が私の意識に何も響かず、自ずと意識が深まり、神がより直に接して来ると同時に、私の実存が開かれる、という感じに導かれないのならば、私はその神を"信じる"ことは出来ません。
要するに、神が見えるかどうかは問題ではないのです。意識的なことに関わること...これはどうしようもないことですi だから信じるも、信じないもないi...信じざるを得ない、受け入れるしかありません。
この意味において神を信じることは、私の実存と一つになることに他なりません。
これは言うまでもなく、観念の域を超えたことなので、信じるという言葉は適切ではないでしょう。
神と一つになること...神が目の前に現れたとして、それと一つになろうなんて意識が動いたりするでしょうか?
いや、逆に意識に火が灯されたら、自ずとそう赴いてしまうでしょう。
信じる対象も、信じている私もなく一つに...
古来から神人合一とか、言葉だけ聞いたらスンゴイことのようだけど、中身がよく分からない表現には、こういう意味合いが隠されているのでしょう。
神と実存とは元々切り離せないものなのです。そうでなければ、ただの拝み信心の迷信、盲信になるだけです。
今の私は、"自分が悟る"、といったことには意識が向かなくなりました。
しかし、神にはどうしても、自ずと向けられてしまいます。それは自己が深まり、広がることと一つのことなのです。
同じことを言い換えているのでは?、という向きもあるかもしれませんが、現実にこの私だけからは、悟ろうといった思いに駆られることはなくなってしまったのですi...そういう促しもありませんi
促されることは、神に向かうこと...これは内奥からのものと、あちらから呼び込まれていることと一つのものなのでしょう。
しかし、ホントに神を信じている、と言えるのだろうか?
私も実際に聞いたことありますが、神が見えるのなら信じる、という人も多いのかもしれません。
では、いつも書いていることと逆とも取れるようなことを想像してみようi
目の前に神が現れたi...ちゃんと人間の言葉をしゃべる...自分がどういう存在で、どう人間と関わっているかなどについて語り出した...
私は信じられるだろうか?...わが目を疑うべきじゃないだろうか?...こういう現象的なことだけ取ってみたら、普段神(的なもの)に意識が向かわせられていることと直接つながってきません。
しかし、私は神が仮に現れることもある、ということは信じています。仮にということは絶対視しないということです。そういうところから迷信が生まれるのです。
それでも、その神の顕れが、その言葉が私の意識に何も響かず、自ずと意識が深まり、神がより直に接して来ると同時に、私の実存が開かれる、という感じに導かれないのならば、私はその神を"信じる"ことは出来ません。
要するに、神が見えるかどうかは問題ではないのです。意識的なことに関わること...これはどうしようもないことですi だから信じるも、信じないもないi...信じざるを得ない、受け入れるしかありません。
この意味において神を信じることは、私の実存と一つになることに他なりません。
これは言うまでもなく、観念の域を超えたことなので、信じるという言葉は適切ではないでしょう。
神と一つになること...神が目の前に現れたとして、それと一つになろうなんて意識が動いたりするでしょうか?
いや、逆に意識に火が灯されたら、自ずとそう赴いてしまうでしょう。
信じる対象も、信じている私もなく一つに...
古来から神人合一とか、言葉だけ聞いたらスンゴイことのようだけど、中身がよく分からない表現には、こういう意味合いが隠されているのでしょう。
神と実存とは元々切り離せないものなのです。そうでなければ、ただの拝み信心の迷信、盲信になるだけです。
今の私は、"自分が悟る"、といったことには意識が向かなくなりました。
しかし、神にはどうしても、自ずと向けられてしまいます。それは自己が深まり、広がることと一つのことなのです。
同じことを言い換えているのでは?、という向きもあるかもしれませんが、現実にこの私だけからは、悟ろうといった思いに駆られることはなくなってしまったのですi...そういう促しもありませんi
促されることは、神に向かうこと...これは内奥からのものと、あちらから呼び込まれていることと一つのものなのでしょう。