世界の主要な宗教の中で、キリスト教ほどヤヤコシイものはないと思います。
"イエスを神の子、救世主と信じる、三位一体の教え、十字架の贖罪、聖書の無謬性を信じる..."、このようなキリスト教の一般的な教理を信じないと、キリスト教徒と見なされないようなのです。
誰が決めたのか?...多分、彼らの間でか、彼らの中のエライ人によってでしょう?
その宗派の一つ、フレンド会(クエーカー)には、クリスチャンになりたいのだけど、そうした信仰上のハードルがあって、中々踏み越えられないでいる求道者が結構来られるようで、私も何人かからそうした話を聞いたことがあります。同会はかなり入信の条件が自由だからでしょう。
私は聞いていて、何とも不思議に、一寸イラつく思いにさせられたのでした。"信じたくない、信じられないのなら信じなければいいじゃないか?"...いいや、それじゃクリスチャンじゃなくなる、と言う。...クリスチャンじゃなけりゃどうだと言うのかi、彼らがそう言っているだけのキリスト教などi...
クリスチャンになることはある種のブランドなのでしょうか?...それとも、そうした教えを信じなければ救われないと思っているのでしょうか?
"あなたは、どう思っているのですか?"、と訊かれ、"どうでもいいと思ってますi"、と答えました。(ちゃらんぽらんで悪かったなi)
確かに、私とキリスト教との関わりはフツーじゃありません。
最初に接したのは、手島郁郎先生の原始福音で、何しろ初めて手に取ったキ教関係の本には、"教理など信じたって救われるもんかi"と書いてあった、のですi
そして、"聖霊を受けることによって救われる"、とありました。私は、へえ、そういう"教え"もあるのかな?、と思ったものでしたが、そこに理屈でなしに、惹き付けられるものも感じていました。
勿論手島先生でも、もう少し後になって知った小池辰雄先生でも、聖霊は聖書のキリスト.イエスと結び付けられています。
これは微妙なところで、教理を信じる部分とも抵触してくるところですが、私は聖霊を本当に体受させられることは、すべての思弁的なことは超えられるものだと感じています。
聖霊は、思いを超えたもの、神的な、霊なるものでなくてなんであろうか?i...贖罪ということも、この"聖霊を受けること"の中にあるということは、小池先生も示唆していることです。
実にキリスト教から、諸々の教えを抽象的に信じることを退けたら、こういうことしか残らないのではないですか?
聖霊、形なき命に与ること...これがすべての宗教の根幹的なことではありませんか?
キリスト教は本来、目立った教理も、行法も、儀式もなく、全く単純な在り方を伝えてきたものだったのです。(そもそもキリスト教は自称でなく、他から侮蔑的にそう言われていたi)
霊的生命というものが廃れて、それを補うかのように教理信仰に重きを置くようになっていったのでしょう。
何が第一義のことなのか?...永遠の命に与ることは、キ教がいつも唱えていることですが、紙に書いてあることを信じたって何にもなりません。神に自分を投げ入れなければ...
人からは何教と言われようと、何教でもない、と言われようとどうだっていいじゃありませんか?
しかし、キリスト教徒は勿論、その予備軍?の人からは、"あなたは、クリスチャンではない"、と言われ、アンチ.クリスチャンからは、"あなたは、クリスチャンだ、"と言われる私は一体...?
私はただ在りたいだけですi
"イエスを神の子、救世主と信じる、三位一体の教え、十字架の贖罪、聖書の無謬性を信じる..."、このようなキリスト教の一般的な教理を信じないと、キリスト教徒と見なされないようなのです。
誰が決めたのか?...多分、彼らの間でか、彼らの中のエライ人によってでしょう?
その宗派の一つ、フレンド会(クエーカー)には、クリスチャンになりたいのだけど、そうした信仰上のハードルがあって、中々踏み越えられないでいる求道者が結構来られるようで、私も何人かからそうした話を聞いたことがあります。同会はかなり入信の条件が自由だからでしょう。
私は聞いていて、何とも不思議に、一寸イラつく思いにさせられたのでした。"信じたくない、信じられないのなら信じなければいいじゃないか?"...いいや、それじゃクリスチャンじゃなくなる、と言う。...クリスチャンじゃなけりゃどうだと言うのかi、彼らがそう言っているだけのキリスト教などi...
クリスチャンになることはある種のブランドなのでしょうか?...それとも、そうした教えを信じなければ救われないと思っているのでしょうか?
"あなたは、どう思っているのですか?"、と訊かれ、"どうでもいいと思ってますi"、と答えました。(ちゃらんぽらんで悪かったなi)
確かに、私とキリスト教との関わりはフツーじゃありません。
最初に接したのは、手島郁郎先生の原始福音で、何しろ初めて手に取ったキ教関係の本には、"教理など信じたって救われるもんかi"と書いてあった、のですi
そして、"聖霊を受けることによって救われる"、とありました。私は、へえ、そういう"教え"もあるのかな?、と思ったものでしたが、そこに理屈でなしに、惹き付けられるものも感じていました。
勿論手島先生でも、もう少し後になって知った小池辰雄先生でも、聖霊は聖書のキリスト.イエスと結び付けられています。
これは微妙なところで、教理を信じる部分とも抵触してくるところですが、私は聖霊を本当に体受させられることは、すべての思弁的なことは超えられるものだと感じています。
聖霊は、思いを超えたもの、神的な、霊なるものでなくてなんであろうか?i...贖罪ということも、この"聖霊を受けること"の中にあるということは、小池先生も示唆していることです。
実にキリスト教から、諸々の教えを抽象的に信じることを退けたら、こういうことしか残らないのではないですか?
聖霊、形なき命に与ること...これがすべての宗教の根幹的なことではありませんか?
キリスト教は本来、目立った教理も、行法も、儀式もなく、全く単純な在り方を伝えてきたものだったのです。(そもそもキリスト教は自称でなく、他から侮蔑的にそう言われていたi)
霊的生命というものが廃れて、それを補うかのように教理信仰に重きを置くようになっていったのでしょう。
何が第一義のことなのか?...永遠の命に与ることは、キ教がいつも唱えていることですが、紙に書いてあることを信じたって何にもなりません。神に自分を投げ入れなければ...
人からは何教と言われようと、何教でもない、と言われようとどうだっていいじゃありませんか?
しかし、キリスト教徒は勿論、その予備軍?の人からは、"あなたは、クリスチャンではない"、と言われ、アンチ.クリスチャンからは、"あなたは、クリスチャンだ、"と言われる私は一体...?
私はただ在りたいだけですi