人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自由と覚醒

2024-10-22 09:52:11 | 覚醒
ベルジャーエフは、随所で”自由”ということを高調しました。
その「自由は霊からくる」と言う。...
真に然り!...霊、霊性は思いを超えたところからくる。いつも言うように、思いに囚われていることが不自由なことなんです!
その宗教、霊性の道は何とトラワレで溢れていることか! 
悟りを開くには、その思考マインドを無くさなければならない、欲望を、肉体を(狂気の沙汰ではないか!)無くさなければならない!...それにはチャクラをすべて開かなければならない、前世のカルマもすべて清算しなければならない!...
どこにも根拠などない不確かなことを信じ込む...そうして何十年も修行してどうなったというのでしょうか?...
覚醒、解脱とか言う。そういう思いに囚われた人は、それが本当はどういうものか分からないらしいです。
常人を超えた、高い次元に進化した境地?、カルマからの解脱?...普通に考えれば分かるでしょう。それは、そういう境地に肖りたいエゴを満たすものでしか無いのです。
つまり、モロ思考、欲望から自由でない心的状態ということではありませんか?、解脱とは、肥大するばかりの自我意識からの解放でなくて何であろう!
このトラワレとは、ほとんどが他人の言葉に支配されている状態と言ってもいいでしょう。裏を返せばそれは、自己信頼の欠如ということです。
自分は自分のままでいい!...そう、それが自由であるということなんだ!
宗教の狂信者、容易くカルトにハマる者...他人の言葉に支配されている限り、覚醒などあり得ないのです。何故ならば、それは催眠術にかかっていることと同じだから!...
自由であることは、神からも自由ということなんですよ。とはいえ、それは神にまつわる
他人、集団の言葉から...ということなのですが...あなたは神に上から支配されているのか?、欲望や邪念を捨てないと、悪い行為を改めないと裁きを受けなければならないのか?
こういう思いに支配されるほどナンセンスなことはありません。
何故ならば、自由は神からくるのだから!...神という言葉がイヤなら、法(ダンマ)でも、妙智力でも、高次元パワーでも何でもいいでしょう。要するに思いを超えたもの、霊なるもののことです。
人が言ってる神、どっかのエライ人からの支配、トラワレがどこから来るのか?...この自分が、”信じ、従い、為さなければならない”、という風に刷り込まれてしまうからです。
そういう思いを超えたもの、真の解放者である、神に意識が向けられないから...これは、ありのままの自分を受け入れられないということでもあります。
あなたが心底自由であることを望むのなら、ソクソクと何かが来たる(如来といわんか?)のを、それがあなたに直に臨むのが感じられて来る...かもしれない。
もし、それがあなたを捉えたなら、あなたはもう受け入れるしかありません。それはそのままのあなたを受け入れることなのです。
神の手に捉えられる...思考も為そうとする力も自由が利かなくなる。神は強制を持って支配するものなのか!
これは、私もどう説明していいか分かりませんが、それは、心の底で望んでいたことはハッキリ分かるのです。
そして、私は初めて光が私の実存に差し込んだその時、本当の自由、全き自由というものを実感したのでした。
私は如何に自分の思いによって支配され、苦しみ続けて来たかを、そして自由なる、愛なる神を裁き主のように恐れていたことが如何に誤ったものであるかを思い知ったのです。

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個己から超己へ

2024-10-20 10:13:30 | 求道、探究
ラマナ.マハルシがよくこんな例え話をしていましだ、
船に10人乗っていて、ある人が”一人二人...”と人数を数えていたのですが、9人しか居ない、と言う...そう、自分自身を数えていなかったというオチです。
こういう笑い話のようなことを多くの人がやっているのではありませんか?
例えば、精神的な、霊性の道において、人間存在の構造には、肉体があり、その奥に幽体が、又霊体や神体があるのだ、とか人間が悟り、神と一つになる道には幾つかの段階があるのだ、とか。...
そういう構造や段階というものは、自分を客観におかないと認識出来ないでしょう。
霊的体験、覚醒体験というのは、こうこうで...つまりこうした客観的説明というものはほとんどがそういうものだということです。
このように、自分を客観において見ているようなことは、直に船の中に居る自分を認識していないことと同じでしょう。
勿論、こうして外に向けて何かを発信している訳ですから、そういう言い方も必要ですよ。知識として参考にするのもいいでしょうが、あくまで参考にしかならないでしょう。霊性の道にあっては特に。
人間一般がその道に関わっているんじゃないのです。あなたや私という具体的な個己が丸ごとそこに預けられているのですよ。なんで他人事みたいに傍観した心的態度でなど居られるでしょうか?
鈴木大拙師は「霊性は個己に開かれる」と言い、ベルジャーエフも「霊は人格に働く」と言いました。いずれも具体的な霊的体験からそのように言い表すことが出来るのです。
ああもう、こうして説明すんの、まどろっこしくてイヤになっちゃいますよ!
霊性は、具体的な個己、人格に開かれる!...その個なるものは、考えている自分であるのも確かなことですが、その個的なものを超えているのも確かなことです。
そうでなければ、どうして開かれるということがあり得ようか?
つまり、考えている自分は、そのままでそれを超えたものに預けられてしまっている、ということなのです。
言い換えれば、開かれるということは、超えられているということ...個己、個的人格と超己、超人格は相即しているということに他なりません。
これは取りも直さず、思いを超えるか、否かということを問題にしているのです。
”フカンして見る”とか気の利いたことが言われたりしますが、傍観して見て居るようなことは、いつまでもそう考えていることなのです。
自分とは何か、本当の自分とは何か、と考え続けていたら、船に乗り遅れるか、降りそこなうだけですよ。
自分を超えられない自分はそのままで、超えたものに預ける...この私に直に神的なものが現前したのなら、そうならざるを得ない!
それは、そのものあってのことであるのは言うまでもありません。
だから、神は私の神しか実在しないのでしょう!...
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霊の種々相

2024-10-19 10:26:59 | スピリチュアル
霊なるもの、霊的なものといっても、一口で言い表せるものではありません。
通俗的には、霊的と言えば、見えないものが見えるという心霊現象などと結びつき、そういうものを感受出来る霊感を有した人間を霊的な人と言ったりします。
それは、本来、人の思いを超えたもので、言葉の概念では分からないもののはずなのです。
つまり私はいつも霊的なことを書いているのですよ。言葉で分かったようなことを言う、心霊的なことにはほとんど触れないのですが...
私的には、その何か霊的なものが臨在する感じ...それは、何よりも思いを超えたものに与っているということで、そういう自分の力を超えたハタラキがある...これほど霊なる事態を言い表すものは無いというくらいなのです。そこにはアリアリとした実在感があるのだが、その実体は分からない!
これには、ほとんどの場合、こちら側が意識的になっている、されていることと関係していると言ってもいいのです。
一方では、古来から神域、霊域とされている神社などを訪れると、霊気のようなものを肌で感じたり、時には(私も数度経験しているが、滅多に無いことです)先の神的な現臨を感受することもあるのです。
これは、こちらの意識状態とは関係無しに、その土地(そればかりとは限らないが)固有の霊なるハタラキによってもたらされるものでしょう。
それは、イスラム教では、”ジン”として、忌み嫌われ、概して聖書の宗教では、低次の霊としてあまり関わりたがらない、”自然霊”といったものなのでしょうか?
これについて、我々日本人は、彼ら砂漠の民と違い、自然、大地に恵まれ、共生することを重んじて来たので、あたかも邪神のように忌み嫌う道理など無いと言わねばなりません。(然るに、欧米のキリスト教などに迎合して、そんな不遜な信仰態度を取る、日本のデモ.クリスチャンなど、前の都知事じゃないけど、”キサマはどこの国の人間なんなんだ!”、と言いたくもなりますよ!)
元より自然霊というものも、霊なるハタラキの一つと言えるでしょう。
このように、我々の霊なるものの観方、感じ方には、いくつか異なるものがあるようです。
ウィキによれば、古来、ヘブライ語で霊のことを”ルーアッハ”と呼び、それは包括的には、気、生命、風、息などの意味があるとのことで、正に自然霊などはその表れと言えます。
これが、新約時代に入り、ギリシア語で同じような意味で、”プネウマ”と訳されるようになったのですが、これがやがて”聖霊”を意味するように転化していったとのことです。
聖霊とは、高次の聖なる霊であり、”精霊”とか自然霊などの低級霊とは区別されなければならない?、だから神道などは低級な宗教なのか?
いや、そうじゃないでしょう。霊とは本来、気、生命と結びつくように、それ自体、善悪、高低などの相対性は持たないものでしょう。それ自体は悪いものでも、低級なものでも無いのです。
ただし、それは本来性を失い、変質してしまうことにより、所謂低級霊、邪霊的なものになる可能性もある...つまり私は最初から聖霊とか邪霊だとかが存在していた訳ではないと思っているのです(ホントのところは分からないのですが)
霊なるものは、あくまでニュートラルなもので、それが我々の心的、意識状態に応じて種々相を表すのではないか、と。...
この原初的な霊性も、そりゃ、そう呼ばれているようにスピリチュアルなものに違いないでしょう。しかし、キリスト教的欧米などでは、狭義にその聖霊的なものに関してそう呼ばれているようです。
それは、日本人として私は...首肯出来ます!
それは、包括的、自他未分的な段階の霊性よりも、もっとこの自己の自覚と共に、実存に即し、我々の精神と切り離されない、霊的な在り方を示すものと言えるでしょう。精神とは英語でスピリットというが如くです。(だから、欧米の実存主義の派生は、近代的キリスト教の発展と無関係では無いのです)
その霊性の道も、肝心な霊なるもの、霊的ハタラキが観念化、形骸化して枯渇しては何にもなりません。それは神的なものから来る!...祈りを通してハタラキたもう!
広義のものでも狭義のものでも生命の事態に関わることには変わりありません。ただ神的な現臨に与ることは、より深く霊なるものと関わることであり、それは意識的になることで開かれることは言うまでもありません。





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原初的な日本的霊性

2024-10-17 10:10:21 | 日本的霊性
鈴木大拙師と言えば、言わずと知れた日本を代表する宗教哲学者です。
専門である禅仏教を超えて広く、普遍的な宗教、霊性の道を究明され、内外に伝えられました。おそらく、欧米でもっともよく知られた知識人かもしれません。
その著「日本的霊性」(岩波文庫他)は、我が国の宗教哲学上の名著として知られているのですが、私は最近再読してみて、やはりこれは!...最初と同様、私には食い足りない、あまり首肯出来ない部分もあるのを感じてならなかったのでした。
師によると、日本的霊性は、鎌倉仏教において、ことに道元、親鸞の出現を通して初めて発露をみたのだという。この著書ではもっぱらその親鸞を始め、浄土系仏教を中心に考察を展開しているのです。
私は、その霊性の発露という意味ではその通りだと思います。それは、個己(師はこの言葉を多用しているのです)の実存に顕わになったということでしょう。(私は常々親鸞こそ我が国の実存主義者の草分けだと思っているのです)
霊性は又、苦難を通して発露をみるという。ということは、それは我々の心理作用、状態によってもたらされるということになります。内的に自覚されると言ってもいいでしょう。
しかしながら、それに先立って我々の精神状態を超えて、霊性、霊なるもののハタラキというものが無ければならないのでは?...発露があるということは、まずそれは我々に元々内在、潜在しているものがあるということでしょう。(師にはこれについての言及がほとんど無いというのはどういうことなのでしょう?)
元よりそれは、実存的、自覚的には感受されないものなのですが、苦難の有る無しに関わらず、何人にも、それは感覚されるものであるはずです。肌で感じるような大気、そう霊気のようなものであり、すべての霊性というものは、この我々に内在し、我々に原初から取り巻いているものがベースになっているものと言えるでしょう。
”そういうものは、そう思われている、信じられているだけのもんだ”、なんて決めつける御仁は、肌でそれを感じたことが無いということなのです。
それは、古くから神域、霊域と言われるお社にしばし、佇み、お参りすることで感じられるでしょう。
大拙師は、主として真宗を始めとする鎌倉仏教と古来の神道との対比で、論を進められるのですが、もう最初から仏教は神道に比べて、霊性の面ではるかに優位に立っている、という固定観念があるようなのです。
私には、師はやはり神道の方は専門外で疎く、先の原初的な日本古来の霊性というものを肌で感じたことが無いのではないかという印象をどうしても持ってしまうのです。
そりゃあ、神道の方面には、大拙師を始め、優れた仏教学者、宗教哲学者はほとんど輩出したこともないし、かつて居たとしても右翼思想とか国家主義と結びつく傾向があったのも確かなことです。
又、俗信や迷信、オカルト思想とも容易に結びつくし、その霊性ということも、心霊学として捉えられ、思いを超えたものに開かれること少なし、という感は否めないものがあります。
このことは、先の霊性が個己の実存に顕わにならないことにつながるのでしょう。
先の肌で感じるというのは、表層感覚のレベルについて言っているのですが、この原初的な霊的ハタラキが、個己に内在、潜在する霊性に感応してそれが表出することも無いとは限らないのです。
そうでなくとも、こうした原初的な日本的霊性無くして、霊性の発露云々ということは語れないのではないでしょうか?
大拙師は、神道の精神世界は、集団的な思念に留まっていると言いますが、これは、そうした後天的な要素よりはむしろ、先天的な”自他未分”の状態に留まっていると言った方が適切でしょう。だから、先のあまり本質的でない、前時代的なものと結びついてしまうのでしょう。
しかし、今、時節は、神道、仏教、そしてあらゆる宗教的伝統を超えて、原初からの純正なる霊の息吹きが個己の霊性に呼応して顕わになって来たのを感じずにおれません。
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KOのインパクト

2024-10-15 09:52:36 | 雑記
この13,14日には、かつてない程多くのボクシング世界戦の他注目のカードが組まれ、それぞれ残念だった選手、辛うじて勝った選手、激闘の末勝利した選手ありで、いっぱいあって正直誰がどの試合だったか分からなくなりそうなのですが...
やはりトリ、圧巻だったのは、この人...中谷潤人です。もう、それまでのすべての試合のことを忘れてしまいそう!...この試合を見るまでは、モンスターの相手として、一昨日、1RKO勝ちして調子こいてる、問題児カシメロの存在が浮かんだのですが、それもどっかへ行ってしまいました。
いやあ、このKOのインパクトは、スゴイ!
モンスター井上の試合のように、これからは独立したメインカードとして見たいですね。
中谷選手は、見るたびに新たな優れた一面を見せてくれます。成長が著しいのでしょう。
今回は、接近戦でロープに追い込まれても、強烈なアッパーを連打してみせてくれました。
離れても、中間距離でも接近戦でも強い!...もう、これに匹敵するボクサーはモンスターしか居ない!
減量苦が伝えられているようなので、スーパーバンタム級に上げるのは時間の問題だろうし、バンタム級では一寸敵が居ないという感じだし。
モンスターも来年にもフェザー級転向の話が伝えられています。そうなると、陣営は早くドリームマッチ実現に動かなきゃならなくなるでしょう。(アメリカ陣営が動けばどうにかなるのでは?)
いやあ、夢の日本人によるPFPランキング.ボクサー、それも無敗同士の対決ですよ。先日のライトヘビー級統一戦、ベテルビエフービボル戦(ビボル惜しかった!)に匹敵するくらいかもしれません。
この機を逃したら、日本ボクシングの...いや世界の、と言ってもいい歴史的一戦は幻になるかも知れないのですよ。
だから来年の夏くらいには実現するであろう!、と私は予言したい!...その先は世の中どうなるか分からない!(まあ、そういう話はここでは”当たらない”でしょうが...)
試合予想?...分かりません。結果はともかく、お互いがもう、正真正銘、過去最強の相手と戦うことになるのは間違いありません。
現時点では、6:4くらいで、スピード、ディフェンスにやや勝り、全体的に(巨人打線のように)コンパクトにコンタクトしてくる井上が有利かな、と思いますが、実現が延びる程この比率は縮まることでしょう。
私的には、このブログと共に歩んで来たと言ってもいい、モンスターを気持ち応援せざるを得ません。私はそのキャリアの中に、本当の意味で歴史に残る一戦というページが刻まれて欲しいのです。歴史に残るボクサーには、それが付いてまわるものなんだ。
だから、ボブ.アラムさん、頼みましたよ!



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