王将戦第一局。今日は対局中はまったくネットを開く時間がなかったのですが、昨日から指し継がれていた将棋が千日手となったと知り、ちょっと驚きました。千日手というのは将棋のルールのひとつで、いろいろと変遷はあったのですが、現在のルールでは、一局の将棋の中で完全に同一の局面(盤上だけでなく持駒も含めて)が4回出現したら、そこでその将棋は終りにして、先手と後手を入れ替えて初めから指し直すというもの(ただし、王手の場合は王手を掛けている側が手を変えなければならず、4回目が出現した場合はその時点で反則負けになります)。将棋は若干ながら先手が有利とされていますので、千日手となったということは、後手の羽生王将がうまく立ち回ったといえるかもしれません。王将戦は即日指し直しで、後手番・佐藤棋聖のごきげん中飛車vs先手番・羽生王将の佐藤流という戦型に。途中、佐藤棋聖が馬を作らせるという展開にはびっくり。この将棋はおそらく32手目の△9五歩から44手目の△9九香成に至る9筋での攻防が勝負の分岐点で、おそらくこの手順中に先手の羽生王将の方に何か誤算があったものと思われます。羽生王将は受けを放棄して攻め合いに出ましたが、佐藤棋聖の攻めの方が早く、68手という短手数で佐藤棋聖の勝ちとなりました。後手番に回ってしまった指し直し局を勝てたのですから、大きい1勝といえるかもしれません。第二局は18日と19日に指されます。指し直し局と同様に、羽生王将の先手の筈です。
明日からは大宮記念です。
第一部定理一四は以下のような背理法で証明することができます。仮に、神以外に何らかの別の実体が実在するとしてみます。これを実体Xとしましょう。すると第一部定義四により、その実体Xはある何らかの属性によってその本性を構成されるということになります。この属性をAとします。一方、第一部定義六によれば、神の本性は無限に多くの属性によって構成されます。したがってAもまた神の本性を構成するでしょう。したがって、Aによってその本性を構成されるふたつの実体、Aと神とがあるということになります。しかしこれはまさに前回のテーマとした第一部定理五に反します。つまり不条理です。よって、自然のうちには神以外にはいかなる実体も存在しないということになるのです。なお、僕は第一部定義六については、この定義から神の存在が直接的に生じてくるという意味の実在的定義であると考えますので、名目性の問題は何もないと思いますが、仮に第一部定義六を名目的であると考えたとしても、第一部定理一一においては神が実在するということが証明されていますので、第一部定理一四が実在的な定理であるということについては、あるいは神の実在をこの定理の前提とすることに関しては、何も問題はないかと考えます。
明日からは大宮記念です。
第一部定理一四は以下のような背理法で証明することができます。仮に、神以外に何らかの別の実体が実在するとしてみます。これを実体Xとしましょう。すると第一部定義四により、その実体Xはある何らかの属性によってその本性を構成されるということになります。この属性をAとします。一方、第一部定義六によれば、神の本性は無限に多くの属性によって構成されます。したがってAもまた神の本性を構成するでしょう。したがって、Aによってその本性を構成されるふたつの実体、Aと神とがあるということになります。しかしこれはまさに前回のテーマとした第一部定理五に反します。つまり不条理です。よって、自然のうちには神以外にはいかなる実体も存在しないということになるのです。なお、僕は第一部定義六については、この定義から神の存在が直接的に生じてくるという意味の実在的定義であると考えますので、名目性の問題は何もないと思いますが、仮に第一部定義六を名目的であると考えたとしても、第一部定理一一においては神が実在するということが証明されていますので、第一部定理一四が実在的な定理であるということについては、あるいは神の実在をこの定理の前提とすることに関しては、何も問題はないかと考えます。