スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

メイショウ戦&一般論からの帰結

2007-01-29 20:22:58 | 将棋
 21日に決勝が指されたメイショウ戦。関西のプロ、育成会員、アマだけが参加の非公式戦ですが、話題の里見香奈女流一級の将棋ですので紹介します。対戦相手は山田朱未女流初段で里見一級の先手。里見一級は相手が居飛車ならほぼ中飛車ですが、山田初段が振飛車なので相振飛車。先手が向飛車で後手が三間飛車というのは、相振飛車としては最も多い戦型だと思います。39手目に角交換になり、44手目に△4四角と山田初段が先着。ただしここから膠着状態のようになり、どちらからも手が出しにくくなりました。74手目の△8四銀はどうだったか。ここでややバランスが崩れたようで79手目▲9五歩から里見一級が先攻。ここから銀と桂香の2枚換となり、と金もできましたので里見一級がリードしたと思います。93手目の▲8七桂で角を召し取ったところでははっきりと里見一級が優勢でしょう。この後、後手をゆっくりと追い込んでいく指し方を選び、129手で先手の勝ち。非公式戦とはいえ里見一級がプロ初優勝を飾りました。終局の局面は後手玉が詰むというわけではありませんが、飛車も僻地に追いやられ、大差ですのでやむを得ないと思います。詳しくは明日以降のデイリースポーツに掲載されますので、そちらを参考にしてください。もしかしたら僕は見当違いの解説をしているかもしれません。

 一般論の問題点が明らかになったところで、それでは、それがなければあるものがあることも考えることもできない場合に、それがあるものの本性を構成するという一般論から、何が帰結するのかということを考えていくことにします。まず、もしも神があればすべてのものはあることも考えることもできるとすれば、ある事物にとって、それがあればその事物があることも考えることもできるものというのは神であるということになります。この場合、事物は何でも構わないので、これをある様態と仮定すれば、様態の本性には神の本性が属するということが帰結することになります。しかし、こういった場合だけではありません。なぜなら、神があれば何ものもあることも考えることもできるというのは、エチカでいえば、第一部定理一五第一部定理一六から生じています。したがって、これらの定理についてその成立を認めないという方法もあり得るでしょう。この場合も、神から生じるとされている事物は何でも構わないでしょうから、やはり同様にある様態と考えれば、様態は神がなくてもあることも考えることもできるということになります。そして僕はこれらふたつのうちのどちらかで、ほかの選択肢はないと思います。よって僕が考える本性の定義に関する一般論からの帰結は、様態の本性に神の本性が属するか、そうでなければ様態は神がなくてもあることも考えることもできるということになります。
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