王将戦第二局。封じ手(50手目)は立会の南九段が予想していた△9四歩でした。その後、54手目の△5四歩から中盤の本格的な戦いに突入。僕が一旦アクセスできたのは午後1時過ぎでしたので昼食休憩中。61手目の▲7四角の局面でした。僕は父とも昔はよく指したのですが、父は矢倉が好きでしたので、相矢倉の将棋も多かったです(もちろん先手が早くに▲2六歩と突く形)。ただ、プロ同士の相矢倉となるとこれが極端に難しく、この局面でもどちらがよいのかは分かりませんでした。ただ、この時点で残り時間に2時間ほどの差がついていましたので、時間の多い羽生王将の方が有利だろうと見当をつけてネットを閉じました。次にアクセスできたのは6時半頃で、このときはもう終局していて、羽生王将の勝ちになっていました。中盤の戦いの中で、結果的に飛車を押さえ込まれてしまい苦しくしてしまいましたので、佐藤棋聖の方に、この決戦策そのもののどこかで誤算があったものと思われます。そのために一方的に時間を使う形になり、時間の切迫にも襲われたのではないでしょうか。投了の局面ははっきりと先手が優勢ですが、投了するには少し早い感じもしますので、佐藤棋聖はわりと早い段階で諦めていたのではないでしょうか。ちょっと面白いと思ったのは、この将棋が相矢倉の定跡形の将棋になったことについて、神崎七段が驚いたいっていたこと。確かに最近の佐藤棋聖は一風変わった戦法を多く指していますが、定跡形を指して驚かれるというのも不思議な話です。これで1勝1敗。第三局は24日と25日です。
僕が考える第一部定理一六の意味の中で、無限という概念の取り扱いについて疑問をもたれる方がいるかもしれません。ただ、この問題はやり出せばきりがありませんから、いずれテーマとして扱うことがあるにしても、ここでのテーマとは関連性が薄いので簡単に弁明します。神の本性は無限に多くの属性から構成されます。ここでは属性AとBだけを考えることにします。属性Aが変状した様態は無限に多くあり、属性Bが変状した様態も無限に多くあります。これで考えれば、属性Aから生じる無限の様態と、属性Bから生じる無限の様態を合わせて、さらに無限に多くの様態があるように、つまり、ある無限と別の無限を合わせることによって、より多くの無限があるかのようですが、僕はそのように考えているわけではありません。これはエチカに訴えるならば、第二部定理七か第二部定理七系、および備考ということになりますが、各属性の間で原因と結果の連結と秩序は同一です。したがって、無限に多くある属性のどれかの様態としてXがあれば、それ以外のどの属性にも同一個体があることになります。したがって、ある属性の様態と別の属性の様態を合わせるということ自体が無意味であると僕は考えています。あるいは、合わせるということは、それが数で区別されることを前提していて、数の区別は様態的区別だから、実在的に区別されるべき異なる属性の様態についてはこれを持ち出すことはできないという観点からも、これは弁明できると思います。
僕が考える第一部定理一六の意味の中で、無限という概念の取り扱いについて疑問をもたれる方がいるかもしれません。ただ、この問題はやり出せばきりがありませんから、いずれテーマとして扱うことがあるにしても、ここでのテーマとは関連性が薄いので簡単に弁明します。神の本性は無限に多くの属性から構成されます。ここでは属性AとBだけを考えることにします。属性Aが変状した様態は無限に多くあり、属性Bが変状した様態も無限に多くあります。これで考えれば、属性Aから生じる無限の様態と、属性Bから生じる無限の様態を合わせて、さらに無限に多くの様態があるように、つまり、ある無限と別の無限を合わせることによって、より多くの無限があるかのようですが、僕はそのように考えているわけではありません。これはエチカに訴えるならば、第二部定理七か第二部定理七系、および備考ということになりますが、各属性の間で原因と結果の連結と秩序は同一です。したがって、無限に多くある属性のどれかの様態としてXがあれば、それ以外のどの属性にも同一個体があることになります。したがって、ある属性の様態と別の属性の様態を合わせるということ自体が無意味であると僕は考えています。あるいは、合わせるということは、それが数で区別されることを前提していて、数の区別は様態的区別だから、実在的に区別されるべき異なる属性の様態についてはこれを持ち出すことはできないという観点からも、これは弁明できると思います。