高松記念2日目優秀のチータカカップ(動画)。
唯一3車となった荒井選手の前受け。4番手に渡部選手,6番手に伏見選手,8番手から矢口選手で周回。残り2周のホームから矢口選手が上昇を開始すると,伏見選手がこれに合わせてその内から上昇。バックでは伏見選手が一旦は荒井選手を抑えたのですが,荒井選手は引かずに打鐘あたりでインから盛り返し,再び先頭に立ちました。後方でこれを見ていた矢口選手が一気に発進。渡部選手もこのラインに乗って荒井選手を叩き,残り1周のホームは矢口ー手島ー渡部ー西郷ー荒井ー加倉ー玉木ー伏見ー紺野の一本棒で通過。バックから渡部選手が先捲りし,矢口選手を捲りきると,手島選手が西郷選手をどかしてスイッチ。迫りましたが渡部選手が振りきって1着。手島選手が2着で,捲り追い込んだ荒井選手が3着でした。
今日は渡部選手がうまく先行する群馬ラインの3番手に入れたことが第一の勝因。往々にしてこういう場合,後ろを気にしすぎてしまうことがあるのですが,関係なしに自分のいけるところから先に出ていった積極性が第二の勝因。今日のレース振りには文句のつけようがないと思います。
残る問題は,第二部定理三五で,誤謬が混乱した観念が含む認識の欠乏であるといわれているときに,それではそこで欠如しているとされている認識とは,具体的には一体どういう類の認識なのかということになると思います。そしてこれについてのヒントは,ここでテーマとして設定している第二部定理一七備考の一文の中に含まれていると僕は考えています。
まずはこれがどういうことかを説明しておきましょう。この一文においてスピノザは,人間にとって事物を表象することは,それが混乱した観念であるということを認識する限りでは(そのものが現実的に存在しないことを知る,とは要するにそういう意味だと解釈できると思います),長所であるといっています。これは逆にいうならば,もしもそういうことを認識しないのであれば,それは欠点であるということを意味するでしょう。したがって,ここで欠如しているといわれている認識とは,それが混乱した観念であるという認識,あるいはそれが十全な観念ではないという認識であるということになると思うのです。
そしてこれは,次のように考えるなら,納得できるのではないかと思います。僕は虚偽と誤謬とを明確に分けて使うことにしましたが,もしもある人間の精神の一部が虚偽によって構成されているとしても,その人間がそれと同時にそれが虚偽であるということを知っていたとしたら,どうしてその人間が誤っている,間違っているということができるでしょうか。したがって,ある虚偽について,同時にそれが虚偽であることの認識が備わっているならば,その人間は誤っているとはいえません。逆にいえば,ある虚偽と同時に,それが虚偽であるという認識が欠如している場合にのみ,その人間は誤っているということになるのです。
唯一3車となった荒井選手の前受け。4番手に渡部選手,6番手に伏見選手,8番手から矢口選手で周回。残り2周のホームから矢口選手が上昇を開始すると,伏見選手がこれに合わせてその内から上昇。バックでは伏見選手が一旦は荒井選手を抑えたのですが,荒井選手は引かずに打鐘あたりでインから盛り返し,再び先頭に立ちました。後方でこれを見ていた矢口選手が一気に発進。渡部選手もこのラインに乗って荒井選手を叩き,残り1周のホームは矢口ー手島ー渡部ー西郷ー荒井ー加倉ー玉木ー伏見ー紺野の一本棒で通過。バックから渡部選手が先捲りし,矢口選手を捲りきると,手島選手が西郷選手をどかしてスイッチ。迫りましたが渡部選手が振りきって1着。手島選手が2着で,捲り追い込んだ荒井選手が3着でした。
今日は渡部選手がうまく先行する群馬ラインの3番手に入れたことが第一の勝因。往々にしてこういう場合,後ろを気にしすぎてしまうことがあるのですが,関係なしに自分のいけるところから先に出ていった積極性が第二の勝因。今日のレース振りには文句のつけようがないと思います。
残る問題は,第二部定理三五で,誤謬が混乱した観念が含む認識の欠乏であるといわれているときに,それではそこで欠如しているとされている認識とは,具体的には一体どういう類の認識なのかということになると思います。そしてこれについてのヒントは,ここでテーマとして設定している第二部定理一七備考の一文の中に含まれていると僕は考えています。
まずはこれがどういうことかを説明しておきましょう。この一文においてスピノザは,人間にとって事物を表象することは,それが混乱した観念であるということを認識する限りでは(そのものが現実的に存在しないことを知る,とは要するにそういう意味だと解釈できると思います),長所であるといっています。これは逆にいうならば,もしもそういうことを認識しないのであれば,それは欠点であるということを意味するでしょう。したがって,ここで欠如しているといわれている認識とは,それが混乱した観念であるという認識,あるいはそれが十全な観念ではないという認識であるということになると思うのです。
そしてこれは,次のように考えるなら,納得できるのではないかと思います。僕は虚偽と誤謬とを明確に分けて使うことにしましたが,もしもある人間の精神の一部が虚偽によって構成されているとしても,その人間がそれと同時にそれが虚偽であるということを知っていたとしたら,どうしてその人間が誤っている,間違っているということができるでしょうか。したがって,ある虚偽について,同時にそれが虚偽であることの認識が備わっているならば,その人間は誤っているとはいえません。逆にいえば,ある虚偽と同時に,それが虚偽であるという認識が欠如している場合にのみ,その人間は誤っているということになるのです。