8日のNOAHの横浜大会では,予定通りのGHCタッグ選手権の試合が行われました。
挑戦したディーロ・ブラウン選手とブキャナン選手のチームはRODとして全日本プロレス(NOAH旗上げ後の)に参戦。全日本プロレスはGAORAで見ることができますが,G+のNOAHのようにチェックしているわけではなく,やっていれば見ることもあるという程度ですので,僕にはあまり印象に残ってなく,今回の初参戦となったNOAHでの試合を見た限りですが,ふたりとも大柄ではありますが,パワーに頼るというタイプではなく,むしろ器用な動きをする選手という印象。プロレスラーのタイプとしては,テリー・ゴディ選手に近いものを感じました。ふたりが揃って同じようなタイプですので,リズムが合っていれば強さを発揮できると思いますが,それが崩れてしまった場合には,意外な脆さを見せてしまうのではないかという危うさも感じました。とくにタッグマッチの場合,ややタイプの異なった選手が組む方が,チームとしては成功するというケースも往々にしてあります。
ふたりは身軽な動きもでき,この日は秋山選手を本部席の机の上にダウンさせ,ブラウン選手がトップロープからボディープレスをやりましたが,これは圧巻でした。この攻撃で秋山選手は左胸(肋骨?)を痛めたようで,苦戦を強いられたものの,最後は力皇選手がブキャナン選手に無双を決め,防衛を果たしています。ただ,そういう試合だったこともあり,秋山選手はあまり納得がいかなかったようです。
明日は富山記念の2日目優秀の峻峰剱賞です。並びは予想で,新田-加藤ー松坂の南関東,小嶋ー浜口ー古田ー島野の中部,石丸ー米沢の瀬戸内。当然ながら小嶋選手◎と浜口選手○で,新田選手▲か石丸選手△の絡み。
現実的に考えた場合には,人間の精神mens humanaを構成する観念ideaの多くは混乱した観念idea inadaequataであると考えられるということはこれで明らかになったといえます。そこで次に,人間の精神のうちに混乱した観念があるといわれる場合に,そうした個々の混乱した観念は,どのような性質をもちながら人間の精神のうちにあるのか,また,人間の精神のうちにそうした混乱した観念があるということが,当の人間にとってどのような意味をもつのか,そして,混乱した観念をその精神のうちに有するような人間が,いかなる意味で誤っている,誤謬errorを犯しているといい得るのかということを考えていくことにします。まずその契機としては,第四部定理一から入っていきます。
「誤った観念が有するいかなる積極的なものも,真なるものが真であるということだけでは,真なるものの現在によって除去されはしない」。
このテーマの最初にいったように,十全な観念idea adaequataと混乱した観念の関係は,有と無の関係に相当します。にも関わらずこの一文を読む限り,スピノザは混乱した観念にもある積極的なものが属すると考えているとしか理解できませんが,これについては後に明らかにすることにします。今はこの定理Propositioに含まれる意味として,たとえばある物体Aが真verumである,すなわちある人間の精神のうちにAの真の観念idea veraがあるというだけでは,その同じ人間の精神のうちにあるAの混乱した観念が除去されるというわけではないという点に注目していくことにします。
挑戦したディーロ・ブラウン選手とブキャナン選手のチームはRODとして全日本プロレス(NOAH旗上げ後の)に参戦。全日本プロレスはGAORAで見ることができますが,G+のNOAHのようにチェックしているわけではなく,やっていれば見ることもあるという程度ですので,僕にはあまり印象に残ってなく,今回の初参戦となったNOAHでの試合を見た限りですが,ふたりとも大柄ではありますが,パワーに頼るというタイプではなく,むしろ器用な動きをする選手という印象。プロレスラーのタイプとしては,テリー・ゴディ選手に近いものを感じました。ふたりが揃って同じようなタイプですので,リズムが合っていれば強さを発揮できると思いますが,それが崩れてしまった場合には,意外な脆さを見せてしまうのではないかという危うさも感じました。とくにタッグマッチの場合,ややタイプの異なった選手が組む方が,チームとしては成功するというケースも往々にしてあります。
ふたりは身軽な動きもでき,この日は秋山選手を本部席の机の上にダウンさせ,ブラウン選手がトップロープからボディープレスをやりましたが,これは圧巻でした。この攻撃で秋山選手は左胸(肋骨?)を痛めたようで,苦戦を強いられたものの,最後は力皇選手がブキャナン選手に無双を決め,防衛を果たしています。ただ,そういう試合だったこともあり,秋山選手はあまり納得がいかなかったようです。
明日は富山記念の2日目優秀の峻峰剱賞です。並びは予想で,新田-加藤ー松坂の南関東,小嶋ー浜口ー古田ー島野の中部,石丸ー米沢の瀬戸内。当然ながら小嶋選手◎と浜口選手○で,新田選手▲か石丸選手△の絡み。
現実的に考えた場合には,人間の精神mens humanaを構成する観念ideaの多くは混乱した観念idea inadaequataであると考えられるということはこれで明らかになったといえます。そこで次に,人間の精神のうちに混乱した観念があるといわれる場合に,そうした個々の混乱した観念は,どのような性質をもちながら人間の精神のうちにあるのか,また,人間の精神のうちにそうした混乱した観念があるということが,当の人間にとってどのような意味をもつのか,そして,混乱した観念をその精神のうちに有するような人間が,いかなる意味で誤っている,誤謬errorを犯しているといい得るのかということを考えていくことにします。まずその契機としては,第四部定理一から入っていきます。
「誤った観念が有するいかなる積極的なものも,真なるものが真であるということだけでは,真なるものの現在によって除去されはしない」。
このテーマの最初にいったように,十全な観念idea adaequataと混乱した観念の関係は,有と無の関係に相当します。にも関わらずこの一文を読む限り,スピノザは混乱した観念にもある積極的なものが属すると考えているとしか理解できませんが,これについては後に明らかにすることにします。今はこの定理Propositioに含まれる意味として,たとえばある物体Aが真verumである,すなわちある人間の精神のうちにAの真の観念idea veraがあるというだけでは,その同じ人間の精神のうちにあるAの混乱した観念が除去されるというわけではないという点に注目していくことにします。