すべての記念競輪が毎年同じ時期に行われるというわけではないですが,平塚記念はゴールデンウィーク中の開催が定着しています。今年は4日が決勝(動画)でした。
Sは伏見選手で山崎選手の前受け。中団は中川選手で後方から武田選手で周回。
定跡通りに武田選手から上昇していきましたが,中川選手が合わせる構えをみせると再び引いて7番手。残り2周のホームから中川選手が上昇し,バックで山崎選手を叩き,ラインで出きったところでスローに落としました。打鐘から武田選手が巻き返していきそのままかまし先行。やや踏み遅れた感のある中川選手が離れた4番手で,さらに遅れた感のある山崎選手はまた離れた7番手。中団の中川選手は動けず,バックから山崎選手の捲り。ただ,直線に入るまで前には届きませんでしたので,番手から手島選手。普通は手島選手に絶好の展開なのですが,直線では山崎選手がようやく届いて優勝。マークの伏見選手も2着まで届き,手島選手は3着まで。
優勝した福島の山崎芳仁選手は先月の川崎記念に続く記念競輪優勝。普通に考えれば絶望的と思える位置から巻き返してのもので,強かったとしかいいようがありません。マークして2着まで届いた伏見選手もさすがであったと思います。
今度は逆の場合について考えてみましょう。すなわち,ゼノンが示そうとしている今という瞬間が,スピノザが指摘するように最小時間ではなく,さらに分割することができるような時間であると仮定するのです。するとこの瞬間は,ある時間の幅を有することになります。これはこの瞬間の全体をXと仮定し,XがAとBに分割可能であると考えれば,少なくともXはAという時間にBという時間を加えただけの幅を有するということから明らかだと思います。
そこでこの場合,Xという瞬間に矢はこの瞬間にある位置にあるということができますが,このあるということの意味は,明らかに矢が静止しているということを意味することができなくなります。それどころかむしろ矢は,分割されるAからBへと運動しているということになるでしょう。このことから,ゼノンがいっている今というのが,どんなに小さいものであったとしても,分割できるような幅を有するような時間であったとすれば,ゼノン自身はむしろ矛盾していることを主張しているということになります。第三の逆説の論理構成に照らし合わせていうならば,第二のものと第三のものが正しいからといって,それ自体で公理に属すると考えられるような第四のものは,必ずしも正しくないということになってしまうからです。
よって,第二のものにおける今というのが,それ以上の幅をもたないような時間,すなわち最小時間でなければならないということは明らかです。したがって,スピノザがゼノンのいう今というのを,最小時間と考えることは,妥当であると考えていいと思います。
Sは伏見選手で山崎選手の前受け。中団は中川選手で後方から武田選手で周回。
定跡通りに武田選手から上昇していきましたが,中川選手が合わせる構えをみせると再び引いて7番手。残り2周のホームから中川選手が上昇し,バックで山崎選手を叩き,ラインで出きったところでスローに落としました。打鐘から武田選手が巻き返していきそのままかまし先行。やや踏み遅れた感のある中川選手が離れた4番手で,さらに遅れた感のある山崎選手はまた離れた7番手。中団の中川選手は動けず,バックから山崎選手の捲り。ただ,直線に入るまで前には届きませんでしたので,番手から手島選手。普通は手島選手に絶好の展開なのですが,直線では山崎選手がようやく届いて優勝。マークの伏見選手も2着まで届き,手島選手は3着まで。
優勝した福島の山崎芳仁選手は先月の川崎記念に続く記念競輪優勝。普通に考えれば絶望的と思える位置から巻き返してのもので,強かったとしかいいようがありません。マークして2着まで届いた伏見選手もさすがであったと思います。
今度は逆の場合について考えてみましょう。すなわち,ゼノンが示そうとしている今という瞬間が,スピノザが指摘するように最小時間ではなく,さらに分割することができるような時間であると仮定するのです。するとこの瞬間は,ある時間の幅を有することになります。これはこの瞬間の全体をXと仮定し,XがAとBに分割可能であると考えれば,少なくともXはAという時間にBという時間を加えただけの幅を有するということから明らかだと思います。
そこでこの場合,Xという瞬間に矢はこの瞬間にある位置にあるということができますが,このあるということの意味は,明らかに矢が静止しているということを意味することができなくなります。それどころかむしろ矢は,分割されるAからBへと運動しているということになるでしょう。このことから,ゼノンがいっている今というのが,どんなに小さいものであったとしても,分割できるような幅を有するような時間であったとすれば,ゼノン自身はむしろ矛盾していることを主張しているということになります。第三の逆説の論理構成に照らし合わせていうならば,第二のものと第三のものが正しいからといって,それ自体で公理に属すると考えられるような第四のものは,必ずしも正しくないということになってしまうからです。
よって,第二のものにおける今というのが,それ以上の幅をもたないような時間,すなわち最小時間でなければならないということは明らかです。したがって,スピノザがゼノンのいう今というのを,最小時間と考えることは,妥当であると考えていいと思います。