棋聖戦の挑戦者決定戦。トーナメントですので振駒で,先手は羽生善治二冠。久保利明八段はごきげん中飛車。先手は③CⅠの超急戦。久保八段にとっては羽生二冠には王将戦で,棋聖戦では昨年の挑戦者決定戦で,共に敗れている,縁起としてはあまりよくない戦型に。
驚いたことにこの将棋は41手目まで,昨年の挑戦者決定戦と同じに進みました。

昨年はここで自玉の詰みをうっかりした久保八段ですが今日は△6四桂と受けに回りました。渡辺竜王によれば昨年の感想戦で出た変化とのことで,そのときは難しいと結論されたようです。先手は▲5五桂と打ち,△同飛。以下,攻め合って第2図。

ここで後手は△5六香。先手は放置して攻め第3図へ。

しかしここではもう後手に思わしい手がないようです。してみると第2図の局面でもっとうまい手がないと,この形はどうも後手が苦しいのではないでしょうか。実戦は第3図以下,寄せきって先手の勝ち。ということで羽生二冠が佐藤康光棋聖への挑戦権を獲得しました。
羽生二冠は2005年にも挑戦しましたが,2勝3敗で奪取に失敗。今回はそのときの雪辱戦となります。
明日はマイナビ女子オープン決勝五番勝負第四局。矢内理絵子女流名人が勝ちますと,初代女王に就位するということになります。
また大井では大井記念。ここはルースリンド◎が中心になりますが,チェレブラーレ○とコウエイノホシ▲にも注目。あとはトップサバトン△とレッドドラゴン△。
アトムが実在しないということの証明は実は公理に由来することになっています。これは『デカルトの哲学原理』第二部公理九で,そこではすべての延長は少なくとも思惟によって分割され得るということになっています。僕はこれがそれ自体で公理として成立するのかどうか疑問ですが,デカルトの哲学について考察することは現在の目的ではありませんから,これは成立しているということにしましょう。
次に定義七では,思惟によって分割され得るいかなるものも可分的であるといわれています。よってこれらを合わせますと,延長に属するいかなるものも可分的であるということになるでしょう。ところでアトムとは,不可分的であるような物質,すなわちスピノザ哲学でいえば延長の有限様態すなわち個物を意味しますから,アトムが実在しないということもここから出てきます。そしてスピノザがゼノンに反論するために抽出している原理も,この点に求められているのです。
デカルトの哲学は,スピノザの哲学に比べれば,思惟属性の延長属性に対する優位性というのが顕著に表れています。思惟によって分割し得るものが可分的であるということ自体は,スピノザの哲学からも認められないというわけではないと思いますが,もう少しこれをスピノザの哲学に照らして考える必要はあると思います。
驚いたことにこの将棋は41手目まで,昨年の挑戦者決定戦と同じに進みました。

昨年はここで自玉の詰みをうっかりした久保八段ですが今日は△6四桂と受けに回りました。渡辺竜王によれば昨年の感想戦で出た変化とのことで,そのときは難しいと結論されたようです。先手は▲5五桂と打ち,△同飛。以下,攻め合って第2図。

ここで後手は△5六香。先手は放置して攻め第3図へ。

しかしここではもう後手に思わしい手がないようです。してみると第2図の局面でもっとうまい手がないと,この形はどうも後手が苦しいのではないでしょうか。実戦は第3図以下,寄せきって先手の勝ち。ということで羽生二冠が佐藤康光棋聖への挑戦権を獲得しました。
羽生二冠は2005年にも挑戦しましたが,2勝3敗で奪取に失敗。今回はそのときの雪辱戦となります。
明日はマイナビ女子オープン決勝五番勝負第四局。矢内理絵子女流名人が勝ちますと,初代女王に就位するということになります。
また大井では大井記念。ここはルースリンド◎が中心になりますが,チェレブラーレ○とコウエイノホシ▲にも注目。あとはトップサバトン△とレッドドラゴン△。
アトムが実在しないということの証明は実は公理に由来することになっています。これは『デカルトの哲学原理』第二部公理九で,そこではすべての延長は少なくとも思惟によって分割され得るということになっています。僕はこれがそれ自体で公理として成立するのかどうか疑問ですが,デカルトの哲学について考察することは現在の目的ではありませんから,これは成立しているということにしましょう。
次に定義七では,思惟によって分割され得るいかなるものも可分的であるといわれています。よってこれらを合わせますと,延長に属するいかなるものも可分的であるということになるでしょう。ところでアトムとは,不可分的であるような物質,すなわちスピノザ哲学でいえば延長の有限様態すなわち個物を意味しますから,アトムが実在しないということもここから出てきます。そしてスピノザがゼノンに反論するために抽出している原理も,この点に求められているのです。
デカルトの哲学は,スピノザの哲学に比べれば,思惟属性の延長属性に対する優位性というのが顕著に表れています。思惟によって分割し得るものが可分的であるということ自体は,スピノザの哲学からも認められないというわけではないと思いますが,もう少しこれをスピノザの哲学に照らして考える必要はあると思います。