スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

NARグランプリ&第三部諸感情の定義六の意味

2017-01-16 19:14:31 | 地方競馬
 昨年のNARグランプリの表彰馬は11日に発表されました。
                              
 年度代表馬はフジノウェーブ記念さきたま杯を勝った大井のソルテ。昨年も地方所属馬は大レースを勝つことができませんでした。その中でこの馬が最も近いところまでいき,重賞も勝ったので順当な選出といえるでしょう。秋シーズンは春シーズンほど走れなかった印象で,やや心配な面は残りますが,かしわ記念を目標に今年も頑張ってほしいところです。部門別では4歳以上最優秀牡馬と最優秀短距離馬を受賞。
 2歳最優秀牡馬は兵庫ジュニアグランプリを勝った北海道のローズジュレップ。これは唯一の重賞勝ち馬ですから当然の受賞。すでに浦和に転厩していますので,今年は南関東クラシックを目指すことになりそうです。
 2歳最優秀牝馬はフルールカップと東京2歳優駿牝馬を勝った愛知のピンクドッグウッド。この路線は重賞勝ち馬が不在。それなら地方競馬の最強馬決定戦といえる東京2歳優駿牝馬を制したこの馬になるところでしょう。北海道から愛知に転厩した馬ですが,この馬も船橋に転入してクラシック路線を戦うようです。
 3歳最優秀牡馬はスプリングカップ,新春ペガサスカップ,新緑賞,駿蹄賞,東海ダービー,秋の鞍,東海菊花賞と愛知と笠松の重賞を7勝した愛知のカツゲキキトキト。勝ったのが地元戦ばかりなので難しいところですが,古馬相手の重賞で大きく離されはしたものの3着に入ったことも評価の対象になったようです。このレースは先着した2頭が強く,負かした馬の中には重賞の勝ち馬もいますので,メンバー次第で重賞勝ちまで望める馬とは思います。今年もすでに名古屋記念を勝ちました。
 3歳最優秀牝馬は黒潮盃ロジータ記念を勝った船橋のミスミランダー。重賞でも2着があり,地元の利はあったものの黒潮盃はカツゲキキトキトを2着に降してのものですから,ここは順当な受賞。ただリンダリンダやモダンウーマンに対してはっきりと力量上位とまではいえないようにも思えます。
 4歳以上最優秀牝馬は金沢の読売レディス杯と名古屋の秋桜賞を勝った兵庫のトーコーヴィーナス。たぶんこの部門が最も難しい選択だったと思いますが,やはり重賞で2着になったのが大きな決め手となりました。地元戦でもなかなか勝ちきれない一面があるのに遠征しても大きく崩れないという,やや不思議な馬という印象を抱いています。
 最優秀ターフ馬は札幌2歳ステークスを逃げ切った川崎のトラスト。唯一の重賞勝ち馬で選出するならこの馬しかないところ。勝った後,JRAに移籍しています。
                              
 ダートグレード競走特別賞馬はかしわ記念,帝王賞,南部杯と大レースを3連勝したコパノリッキー。昨年は日本競馬全体で大レースを3勝した馬が2頭で,そのうちの1頭,しかもいずれも地方競馬場でのレースですから当然の受賞でしょう。
 特別表彰馬はメイセイオペラと1989年からJRAに移籍し,その年の年度代表馬に選出されたイナリワンの2頭。どちらも地方競馬史に残る名馬です。
 ばんえい最優秀馬についてはこのブログでは割愛します。

 何が独善的な定義Definitioであって何が独善的な定義ではないのかということは,結局のところその定義を判断する人がどういう立場で判断を下しているかということに左右されます。ですからスピノザによる愛amorの定義が独善的であるか否かということは,問う必要がありませんし,問うたところで正しい解答を得られるというものでもありません。なので独善的であるなら独善的であっても構わないのですが,そのような評価を下すことによって,そこに含まれている哲学的意義を見落とすようなことは避けなければならないでしょう。
 前もっていっておいたように,スピノザによる愛の定義の大きな特徴は,外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeとだけいわれ,その原因の観念の対象ideatumが何であるのかということは問われていない点にあります。すなわちスピノザは,人がある外部の,すなわち自分ではない何らかの観念を有したときに,その観念を有したということが起成原因causa efficiensとなって自分自身に喜びが生じる場合には,観念されたものが何であれ,僕たちはそのものを愛しているのだといっているのです。フロイデンタールJacob Freudenthalが愛の対象を妻や子どもに限定しているかどうかは微妙だといわなければなりませんが,少なくともスピノザにとってはそうではありません。あらゆる人間が愛する対象となり得ますし,人間に限らず,どんなものでも愛する対象となり得るのです。それはたとえばペットであってもいいですし,おいしい食べ物であってもいいのです。あるいは二次元の世界で描かれるようなものであってもいいのです。とにかく何であれ,その観念が原因となって喜びが齎されるのであれば,それはすべてその観念されたものに対する愛であって,観念されたものがどんなものであるのかということによっては,それが愛であったり愛でなかったりはしないのです。いい換えれば愛の対象については,愛という感情の価値的な相違を決定することはないのです。
 この定義は,愛するということの方を重くみた定義であると僕には思えます。とくにフロイデンタールの主張と比較するとよく分かります。フロイデンタールの定義は,愛されることの方を重視しているといえるからです。
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岡田美術館杯女流名人戦&独善的な定義

2017-01-15 19:37:14 | 将棋
 岡田美術館で指された第43期女流名人戦五番勝負第一局。対戦成績は里見香奈女流名人が11勝,上田初美女流三段が2勝。
 岡田美術館の館長による振駒で上田三段の先手。里見名人のごきげん中飛車で①-Bになりました。先手が中央を厚く構え,後手が捌きにいく将棋。少し駒損でしたが玉が固い後手が捌けたので,中盤は後手がよかったのではないかと思います。
                                     
 先手が攻め合いを目指して桂馬を打った局面。放置して☖3七歩成とする手も有力だったと思われますが☖同飛と取り☗同歩に☖5二歩と受けました。大きく駒損して受けに回るのは変調ですが,桂馬を取るのが大きいとみたのだと思います。
 先手は☗5三歩成と成り捨てて☖同歩に☗3六銀と払いました。後手は☖3二金☗4一銀成と金を逃がしてから☖3六角。ただし金が逃げたため☗3四飛の両取りが発生しました。ここはどちらが後手にとって得だったか難しいのではないかと思います。
 後手は☖2七銀と打って☗3二飛成☖2八銀不成☗3六龍と進めています。これは☖3二金と逃げたときに想定できる展開なので,駒損を承知でこう進めたのは,これで指せると判断していたからか,苦しいのでこう勝負するほかないとみていたかのどちらかでしょう。
 ☖3五歩☗同龍☖2四角はおそらく後手の読み筋だと思います。先手が☗3二龍と入った局面が勝敗のポイントだったようで,後手は☖3七銀成と指すべきだったようです。実戦の☖7九飛☗8八玉☖8五桂はやはり読み筋だったのでははないかと思いますが☗5一角という絶妙手がありました。
                                     
 部分的には☖同金☗同成銀☖同角で大損ですがもしそう進めば☗7九玉と飛車が取れます。これがおそらく後手が見落としていた決め手で,第2図は先手が勝ちになっているようです。
 上田三段が先勝。第二局は22日です。

 スピノザは第三部諸感情の定義六で,外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeという感情について,それを愛と定義しました。フロイデンタールJacob Freudenthalによればこれは,スピノザが生涯を通して独身であったために,妻の私心のなさや苦痛と喜びから生じる母性愛を経験として知らず,単に噂だけで知っていたために可能であった定義Definitioであることになっています。
 フロイデンタールは愛amorという感情affectusの定義がどのようなものであるべきであるかを具体的には示していません。ただフロイデンタールはその直前の部分で,独身であった哲学者たちが多くの倫理的な関係について異なった判断を下した理由を,独身者は妻や子どもから助けられるという経験をしたことがないという点に帰していますし,もしスピノザが妻帯者で子どももあったと仮定すれば,スピノザは愛の本質についてもっと純粋な理解を得ることができたであろうといっています。したがってこの点を考慮すれば,妻帯者で子どもがある男は必然的に愛の本質を理解し,その理解は共通のものであって,そうして理解される内容こそが愛という感情の定義でなければならないとフロイデンタールが判断していることは間違いないといえるでしょう。
 フロイデンタールが愛という感情をどのように定義しようと僕にとっては構わないことです。もっといってしまえば僕には興味がありません。ですがそうした判断の下にスピノザによる愛の定義を否定することは,僕にはスピノザの哲学を研究するという態度として愚かであると思えます。むしろスピノザが,外部の原因の観念を伴った喜びということだけで愛を定義したこと,すなわち外部の原因の観念という場合の観念されたものideatumが何であるのかということを問わずに愛という感情を定義したことのうちに,この愛の定義の意義と重要性があると僕は考えるからです。
 そもそも,フロイデンタールはスピノザが独身であったがために愛をこのように定義したと主張しているのであり,それは独身者の独善であるといっているのと同じです。しかしフロイデンタールが妻帯者で子どもがあるから愛を別の仕方で定義するなら,それも同じ意味で独善的といわなければなりません。
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海と宝石③&独身者

2017-01-14 19:16:44 | 歌・小説
 海と宝石②でこの曲の一番は終り。二番は次のように始まります。
                                     

     冷たそうな女が 身について
     傷つけることだけ 得意です


 海と宝石①で示した冒頭の二行を,僕は当初はおおよそ不自然に解釈していましたが,実際には女の独白と解するべきでした。同様にこの二行も女の独白でしょう。ただし一番が単なるお願いであるのに対して,ここは自己評価のようになっているという違いがあります。
 最初の一行から理解できるのは,少なくとも他人はこの女のことを冷たい女とみなしているというように,女自身が把握しているということです。ただ,たぶん女自身は,自分が冷たい女であるというようには認識していません。冷たい女が身についた,と歌わずに,冷たそうな女が身についた,と歌っているのは,そういう理由からであると僕は解釈します。
 次の一行は,他人を傷つけることが得意になったということで,以前とは自分が変化したということを女が認識していることを示します。ただ,僕の考えでいえば,この女は他人のことを傷つけることを意図して傷つけているのではありません。そんなつもりが少しもなくても結果的に他人を傷つけてしまうようになった,傷つけずにはいられなくなった,というような意味だと思います。だから得意ですと歌っているのは,それを自慢しようとしているのではなく,むしろ自虐的な意味が込められているのだと解します。なおかつ,それが得意である,と歌っているのではなく,それだけが得意である,と歌っているのですから,自虐とか落胆の色合いはそれだけ濃いものであると感じられます。
 なのでこの部分は僕にもそう難しくありません。ほかの解釈もあり得るでしょうが,僕は僕の解釈で納得できます。

 『スピノザの生涯』の第八章で,スピノザ自身の暮らしと『エチカ』のある定義Definitioが関連付けられて説明されている箇所があります。
 スピノザがハーグで暮らすようになった時点で,両親はずっと前に死んでいました。そしてきょうだいとも音信不通でした。これはもちろんスピノザがずっと前に破門されたことが影響しているのであり,要するにスピノザは破門以降は,それまでは存在していたであろう家族との関係の一切が断たれていました。また,スピノザは結婚しませんでしたし,子どももいませんでしたから,破門されてからは,一般的な意味で解されるような家庭環境というものに身を置くことはありませんでした。
 フロイデンタールJacob Freudenthalによれば,スピノザは家庭生活への配慮と煩雑さから解放されることによって,活動の自由と独立性を失わずにすみました。なお,フロイデンタールはこの点については,スピノザだけでなく,デカルトやライプニッツGottfried Wilhelm Leibnizといった,その生涯を独身で通したほかの人の名前もあげていますので,こうした要素は独身者に共通のものであると解していると考えられます。
 しかし,スピノザはそのことによって,人間の生活の最も美しくまた最も有意義な一面からも閉ざされていたのだとフロイデンタールは主張しています。この部分もとくにスピノザに対して妥当するのでなく,すべての独身者はそうした一面から閉ざされているとフロイデンタールがみなしているのは間違いありません。フロイデンタールの理解では,スピノザは自由を獲得できたという利益よりも,家庭生活の美しさや有意義さから閉ざされていたという損失の方が大きかったのです。
 何が人生について美しいことであり,何が人生にとって有意義であるのかについて,議論しようという気は僕には少しもありません。おそらくこの記述からすれば,フロイデンタールはよき家族,妻と子どもに恵まれていて,そうした自身の人生における価値観からこのような評価を下しているのだと僕は推測しますが,そのフロイデンタールの価値観が誤りであるとも僕は思わないです。ですがそれをスピノザの哲学と結び付けるべきではないだろうと僕は考えるのです。
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JRA賞&価値判断

2017-01-13 19:27:43 | 中央競馬
 昨年度のJRA賞は10日に発表されました。
 年度代表馬は天皇賞(春)ジャパンカップを勝ったキタサンブラック。ほかに京都大賞典を優勝。僕には正直なところ意外でした。国内に専念してGⅠ2勝のこの馬より,海外遠征も含めてGⅠを3勝したモーリスの方が上と考えるからです。ただし,この馬の成績は例年であれば受賞に十分に値するでしょう。部門別では最優秀4歳以上牡馬。もちろんその部門でもモーリスの方が上というのが僕の考えではあります。
 最優秀2歳牡馬は朝日杯フューチュリティステークスを勝ったサトノアレスで最優秀2歳牝馬は阪神ジュベナイルフィリーズを勝ったソウルスターリング。この2頭に関してはとくにいうべきことはありません。
 最優秀3歳牡馬は菊花賞有馬記念を勝ったサトノダイヤモンド。ほかにきさらぎ賞と神戸新聞杯を優勝。レベルの高い路線でしたが,最後に有馬記念で古馬を撃破したのは大きな決め手。この馬の受賞が当然と思います。そしてキタサンブラックとの比較から,年度代表馬でもおかしくなかったことになると思います。
 最優秀3歳牝馬はオークスを勝ったシンハライト。ほかにチューリップ賞とローズステークスを優勝。GⅠを勝った3歳牝馬の中ではこの馬の成績が最も優秀。ですからこれも当然の受賞だと思います。残念ながら故障ですでに引退しています。
 最優秀4歳以上牝馬は宝塚記念を勝ったマリアライト。6戦してこの1勝だけなのですが,そのときに負かした相手のレベルが非常に高く,それが評価の対象になったものと思います。難しい選択だと思いますが,僕は妥当な選出と思います。
 最優秀短距離馬はマイルチャンピオンシップを勝ったミッキーアイル。ほかに阪急杯を優勝。スプリントGⅠも2戦とも2着でしたから,実績的に順当な受賞といえるのではないでしょうか。
                              
 最優秀ダートホースはチャンピオンズカップを勝ったサウンドトゥルー。この馬も7戦してこの1勝だけでした。ただ,JRA賞はJRAでのレースが選考の対象となるべきであり,GⅠを勝った2頭のうちどちらかを選ぶということになれば,こちらになって当然だと考えます。
 最優秀障害馬は中山グランドジャンプ中山大障害を勝ったオジュウチョウサン。東京ジャンプステークスと東京ハイジャンプにも優勝。これは満票でないとおかしいです。
 今年は特別賞があり,チャンピオンズマイル天皇賞(秋)香港カップを勝ったモーリスが選出されました。昨年は大レースを3勝したのはこの馬とコパノリッキーだけ。それで特別賞はやはり不自然な気がします。2015年の年度代表馬・最優秀短距離馬。連続受賞となりました。間もなく競走馬登録が抹消され,種牡馬入りするものと思われます。

 『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』のように,およそ250年前の人物の伝記を書くにあたって,その中に伝記作家による価値判断が含まれることは,伝記という文学が有している性質からして,むしろ自然なことであると僕は思います。いい換えればそのこと自体は,伝記の対象がスピノザであるかどうかに関係なく,含まれてしかるべきだろうと思うのです。なぜなら,250年もの年月が経過すれば,人びとないしは時代の背後を構成する全体的な価値観自体に変化が生じる筈なのであって,250年前の出来事あるいは思想というものを,250年後の観点から再評価するという観点は必要であると僕は思うからです。これは現代においてスピノザの哲学を考察するという場合にもむしろ要請されるのだと僕は考えています。つまり現代に特有の出来事,スピノザの時代には生じることがあり得なかっただろうと思われるような出来事に対して,スピノザの哲学をどのように活用することができるかを探求するということは,現代においてスピノザの哲学を生かすということなのであって,それは逆にスピノザからみれば,スピノザの哲学が現代においても生きているということの証となるであろうからです。
 したがって,フロイデンタールJacob Freudenthalが伝記の中に価値観を組み込み,それによって評価しようとすること自体は僕は少しも否定しません。ところが『スピノザの生涯』の中には,フロイデンタールが生きていた1900年時点での価値観が含まれているというだけでなく,おおよそフロイデンタールという人自身が抱いている個人的な価値観といったものも滲み出ていて,その個人的な価値観によってフロイデンタールがスピノザを評価しているという部分が含まれていると僕には思えます。そういう評価をすることはフロイデンタールの勝手ですから僕はその行為自体に何かものをいうつもりはありません。しかしフロイデンタールの個人的な価値観が一面的であるために,かえってスピノザの哲学の特異性,あるいは優秀性といったものを殺してしまっているというように僕には感じられる部分がありました。僕はそうした点についてはフロイデンタールに対して反論しようと思います。
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和歌山グランプリ&伝記

2017-01-12 19:11:44 | 競輪
 被災地支援競輪として実施された昨日の和歌山記念の決勝。並びは浅井に渡部,村上‐藤木‐三谷‐西岡の近畿,中川‐飯田の九州で木暮は単騎。
 浅井がスタートを取って前受け。3番手に村上,7番手に木暮,8番手に中川という周回に。残り2周のホームに入ると村上が渡部との車間を開けて後ろを牽制。木暮も中川も動けず,バックの手前から村上が動いていき,浅井を叩いて誘導も斬って先頭に立って打鐘。木暮が5番手に続き,浅井は6番手。中川は8番手のまま一列棒状になって打鐘を通過。そのままホームの手前から発進した村上の抑え先行に。浅井はホームでは仕掛ける構えをみせたものの動かず,コーナーに入ると藤木が村上との車間を開けました。浅井はバックから発進。待ち構えていた藤木が牽制したものの,これが最終コーナーに差し掛かるところだったため内が開くことになり,そこを三谷と三谷マークの西岡が突きました。直線に入ると三谷が先頭に立ちましたが,渡部の後ろから浅井の動きを追っていた中川が大外から突き抜けて逆転で優勝。1車輪差の2着に三谷。1車輪差の3着に西岡。
 優勝した熊本の中川誠一郎選手は10月に久留米で開催された熊本記念以来の優勝で記念競輪3勝目。GⅢは4勝目。和歌山記念は初優勝。周回中が8番手で,道中は動けず一列棒状の8番手のままでしたから,展開的には厳しかったところ。結果的にいえば道中で脚を使わなかったことが最後の逆転に繋がったといったところでしょう。自力で走る場合は位置を取りにいくよりこういうレースの方がむしろ力は発揮できるのかもしれません。このレースは村上の先行が容易に予想でき,わりと楽な先行になるかとみていましたが,思いのほか早く発進したので最後まで保ちませんでした。藤木も番手捲りを敢行するようなレースをすれば結果も違ったものになっていたかもしれませんが,さすがに村上の後ろからそういう走行をするわけにはいかなかったのでしょう。4番手が地元の西岡でしたから,牽制で内を開けるのも,近畿勢としては想定のひとつだったかもしれません。ただ最後は逆転を許していますので,並びも含めて,違った作戦を選んだ方がよかったのではないでしょうか。

 『スピノザの生涯』は伝記ですが,単純にスピノザの人生およびその時代の出来事を辿ったというものではありません。これにはふたつの意味が含まれます。
                                     
 フロイデンタールJacob Freudenthal以前に,スピノザの確たる伝記は存在しませんでした。リュカスJean Maximilien LucasやコレルスJohannes Colerusは確かに伝記を書いたとはいえますが,ひとりの人生を記述するという意味での伝記としては分量があまりに少なかったからです。ですからフロイデンタールは伝記を書くために,まず資料を収集する必要がありました。そしてオランダにおいて多数の資料を発見したのです。それらがとくに後年の研究家に対して大きな役割を果たしたといえるでしょう。
 しかし資料というのは収集しただけでは伝記にはなりません。それらを幅広く分析し,独自の解釈も加えた上で,合理的な形とすることで伝記が完成するのです。ですから第一に,『スピノザの生涯』は仮にそれを単なる伝記と解するとしても,それはフロイデンタールの解釈が含まれたものです。いい換えればそこに書いてあることのすべてが事実であるという保証はありません。すでにゲプハルトCarl Gebhardtが完成形としてまとめた段階において,フロイデンタールの解釈には誤りが含まれているのではないかという疑念は存在しました。この意味においてこれはフロイデンタールによるスピノザの人生の解釈であり,決定版の伝記であるとはいえません。たとえば『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』の中には,フロイデンタールの伝記とは異なった内容の記述が含まれています。ナドラーSteven Nadlerとフロイデンタールのどちらが正しいのかという問題ではなく,そもそも『スピノザの生涯』とはそういう書物であると解しておく必要があるかと思います。
 さらに,これは伝記ではあるのですが,記述の中には価値的な評価も含まれています。これはフロイデンタール自身がスピノザの哲学についても研究しているのですし,また哲学解説と二部構成で完成するということをフロイデンタール自身が意識して書いていたでしょうから,そうなるのが自然であるとはいえます。ただ,僕はその価値判断の中には,やや問題もあるのではないかと思えました。なのでこちらの意味はより重要と考えます。
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サンケイスポーツ盃船橋記念&ゲプハルト

2017-01-11 19:21:07 | 地方競馬
 第61回船橋記念
 横並びの発馬からフラットライナーズが抜け出して単独の逃げ。2番手はブラックレッグ,キョウエイロブスト,マリカの3頭で併走。2馬身ほど開いて単独の5番手にイセノラヴィソン。差がなくアルゴリズムとサウスビクトルが続き,さらに差がなくクラトイトイトイ,ヤマチョウフェア,ムービングライトの3頭。残る4頭はここから少し離されました。最初の400mが22秒9のハイペース。
 直線に入ったところでフラットライナーズのリードが2馬身ほどに。2番手で追っていた3頭のうち,キョウエイロブストとマリカはここで脱落。ブラックレッグはじわじわと伸びてフラットライナーズとの差を詰めましたが,交わすには至らず,逃げ切ったフラットライナーズの優勝。ブラックレッグはクビ差で2着。脱落した2頭に代わって3番手に上がったイセノラヴィソンを,中団から末脚を伸ばしたムービングライトが捕え,2馬身差で3着。イセノラヴィソンはクビ差の4着。
 優勝したフラットライナーズは7月の習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞2勝目。そのレースが地方競馬交流であったのに対し,ここは南関東限定。未対戦の馬もいましたが,強力な上昇馬というのは不在。それなら斤量は増えていても最有力候補であろうと考えていました。スプリント路線に絞ってからは安定して走っていますから,南関東重賞はまだ勝てるでしょう。ただ,重賞で通用するほどのスピードは,現時点ではないように思います。母の父はタイキシャトル。母の半姉に1998年のオークスを勝ったエリモエクセル
 騎乗した船橋の左海誠二騎手は習志野きらっとスプリント以来の南関東重賞制覇。第46回以来16年ぶり(2005年は実施されていないため)の船橋記念2勝目。管理している船橋の林正人調教師は船橋記念初勝利。

 『スピノザ・生涯と教説』の第一部に該当する『スピノザの生涯』が発刊された後,第二部を発刊することなく死んでしまったフロイデンタールJacob Freudenthalの遺稿をまとめ,著作を完全な形として発刊した編者はカール・ゲプハルトでした。
                                   
 フロイデンタールが,後年の研究家がスピノザの人生について探求するために大きな礎を築いた人であったとすれば,ゲプハルトはスピノザの哲学について研究するために偉大な役割を果たした人でした。ゲプハルト自身が研究者で,スピノザの哲学について研究した人であったからというのもその役割のひとつですが,最大の功績は,1924年にハイデルベルク版といわれるラテン文によるスピノザ全集を編集した点にあります。少なくともこの当時,これはラテン語のスピノザ全集としては決定版でした。そのために編集者の名前からゲプハルト版ともいわれています。岩波文庫版で畠中尚志が訳しているスピノザの著作は,ラテン語のものはすべてゲプハルト版を底本とした日本語訳となっています。これだけでゲプハルトがどれほどの役割を果たしたかは理解できるでしょう。ただし,『知性改善論Tractatus de Intellectus Emendatione』に付されている番号はこれより前,1840年代に出たブルーダー版といわれる全集のもので,ゲプハルトが付したものではありません。また『スピノザ往復書簡集Epistolae』の書簡の番号も,1883年のフローテン‐ランド版といわれる全集で改定されたもので,ゲプハルト版は原則的にそれに倣っています。例外は書簡四十八の二と六十七の二で,これはフローテン‐ランド版が出版されたときに未発見のものでした。
 スピノザの死後,ほどなく遺稿集Opera Posthumaは出版されましたが,これは発禁になりました。その後もスピノザの著作は広く流通していませんでした。ゲーテJohann Wolfgang GoetheとヤコービFriedrich Heinrich Jaobiが汎神論論争をしていたのは1770~1780年代ですが,この時代でもおそらくスピノザの著作は容易に入手できなかったでしょうし,所有していることを公にはしにくかったのではないかと思われます。この論争を機にドイツではスピノザブームが生じ,1800年代に入って全集も出るようになりました。その決定版が1924年のゲプハルト版だったのです。
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社会契約の絶対性&フロイデンタール

2017-01-10 19:13:24 | 哲学
 スピノザは『国家論Tractatus Politicus』の中で,国家Imperiumの市民Civesに対する絶対的権限の不可能性を,自分が自分の机に対して有している絶対的権限とはいかなるものであるか,あるいはいかなるものであり得るのかという観点を例として示していました。これは端的にいうと,現実的に存在するどんなものにも,それに固有の現実的本性actualis essentiaが存在していて,その現実的本性に反するようなことは,たとえどんな存在existentiaであっても権限として有することは不可能なのであるという主旨の説明でした。
                                     
 スピノザは国家の成立を説明するときに,人が自然権jus naturaleを部分的に譲渡するという意味における社会契約という概念notioを利用することがあります。ところが自然権というのは各々のものがなし得るpotentiaであって,つまりそれは現実的本性に対比させていえば現実的実在性なのです。というのも実在性realitasとは力という観点からみた本性essentiaにほかならないからです。ですから,現実的本性に反することを権限として有することはできないというのと,現実的実在性に反することを権限として有することはできないということは同じです。実際にスピノザが『国家論』で示している実例は,それに応じているといえるでしょう。
 ただし,この場合に自然権を部分的に譲渡するということが,現実的には自然権の拡張が果たされるということでないと,社会契約は概念的に無意味だというのがスピノザの政治論の特徴です。なのでこれに反するような社会契約は絶対的ではあり得ません。むしろその場合には社会契約を破棄することの方が奨励されることになるでしょう。よってスピノザの政治論における社会契約というのは,絶対的なものではありません。たとえばある国家における社会契約が,市民の自然権を狭めるのなら,市民がその社会契約を破棄することは許容されることになります。
 社会契約の実在性理性の有entia rationisなので,これは理論上のものではあります。ただ,市民が社会契約を遵守することが絶対的に求められることはないという点は,スピノザの政治論の特徴的な帰結のひとつだといえるでしょう。

 『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』が第一部となっている『スピノザ・生涯と教説』については,著者と編者を詳しく説明しておくのがよいと思います。僕たちがスピノザについて探求するという場合に,どちらも大きな役割を果たしているからです。
 著者であるヤーコブ・フロイデンタールJacob Freudenthalは,1839年産まれのドイツ人です。哲学史家であるツェラーEduard Gottlob Zellerの門下で,ブレスラウ大学の哲学の教授であったそうです。哲学の教授ということですが,たぶん研究生活の大部分はスピノザが中心であったものと思われます。
 『スピノザの生涯』は,『スピノザ・生涯と教説』の第一部として1904年に公刊されたのですが,フロイデンタールはその3年後,1907年には死んでいます。第二部については未発表の原稿は膨大に残されていたものの,フロイデンタールが意図するものとしては発刊できなかったと解しておくのがよいと思います。ゲプハルトCarl Gebhardtが編集して第二部と合わせて出版されたのが1927年。フロイデンタールの死後20年も経過しているのは,原稿の全体であったのか部分的にであったのかは不明ですが,少なくともゲプハルトには解読することができない速記による記述があったからのようです。
 フロイデンタールは哲学の研究という面でも後世に果たした役割は少なくなかったかもしれません。ですが決定的な役割を果たしたといえるのは,スピノザの生涯に関わる研究に,有用な資料を多く残してくれたという点でしょう。もちろんそうした仕事は,フロイデンタールが果たさなかったとしても,きっと後にだれかがなしたでしょう。しかしフロイデンタールがなしたから,それ以後の人たちは研究にその成果を大いに生かすことが可能になったのであり,スピノザ研究においてフロイデンタールが果たした功績というのは,途轍もなく大きなものであったと考えておくべきだろうと思います。
 とりわけフロイデンタールは,単に資料を収集して自身の手になる伝記を記述しただけでなく,集めた資料の方も出版しました。その点にこそ彼の業績が集約されているといえます。そちらの細かな資料こそ,スピノザの生涯を知るうえでの不可欠な要素なのです。
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王将戦&スピノザの生涯

2017-01-09 19:43:36 | 将棋
 掛川城二の丸茶室で指された第66期王将戦七番勝負第一局。対戦成績は郷田真隆王将が25勝,久保利明九段が19勝。
 掛川市長による振駒で郷田王将の先手と決まり,久保九段のごきげん中飛車。①-Bに進み,先手が早めに5筋を交換させて☗6五角と打つ将棋。そのまま攻勢をとった先手が飛車銀交換の駒損の代償に5三にと金を作る展開に進めました。
                                     
 先手が飛車を打ち込んだ局面。ここから☖4一飛☗同飛成☖同金☗6一飛と進みました。
 この局面は後手が☖5一飛と打つと千日手になりそうなところ。自分から仕掛けて千日手は先手にとっては不本意ですから,先手の仕掛けはよくなかったということでいいのではないかと思います。
 後手は千日手を回避して△4四角と打ちました。後手としては千日手も悪くない選択の筈ですから,この局面は自身が有利であると後手は判断していたことになるでしょう。
 ☗4一飛成☖9九角成は当然の進展。そこで☗5二龍☖7二香としてから☗8八銀と受けました。この交換は入れてもすぐに2二の金を取れるわけではない分,攻めることだけを考えれば味を消してしまう意味もあります。駒を使わなければ受けきれないので止むを得ないという判断の下の指し手であったと思われます。
 ☖9八飛☗7九金打はどちらもこの一手。そこで後手は☖9五角と打ちました。
                                     
 この手が好手で後手の攻めは繋がっているようです。切れなければ現状の後手玉は安全ですから,そのまま勝ちになりました。
 久保九段が先勝。第二局は23日と24日です。

 妹の宿泊訓練があった6月9日に,僕は1冊の本を読了しています。フロイデンタールJacob Freudenthalの『スピノザの生涯Spinoza:Leben und Lehre』です。これはスピノザの伝記です。
                                     
 フロイデンタールはスピノザ没後250年に合わせて,スピノザの伝記と教説すなわち哲学解説の二部構成の書物の出版を企てました。そのうち第一部となる伝記は1904年に出版されました。フロイデンタールによる序文の日付は1903年12月です。
 第二部の教説はフロイデンタールの生前には完成しませんでした。しかし未完の原稿が膨大に残っていたので,それらの資料がゲプハルトCarl Gebhardtの手に委ねられ,1927年に出版されました。そのときにゲプハルトはフロイデンタールが生前に出版していた伝記の部分にも新しい研究の成果として訳注を加えて,第二版として出版しています。日本語版は『スピノザ哲学研究』などの著書がある工藤喜作の訳で1982年に発行されていますが,訳の底本とされているのは,ゲプハルトによって手が加えられた第二版の方です。第二版というのはフロイデンタールが発行を目論んでいた書物の全体で,これは『スピノザ・生涯と教説』という題名で,日本語版の『スピノザの生涯』はその第一部の訳出になります。
 フロイデンタールはこの伝記を出版する前に,『スピノザの生涯と歴史』という四部構成の資料集も出版しています。その一部が訳出されているのが『スピノザの生涯と精神Die Lebensgeschichte Spinoza in Quellenschriften, Uikunden und nichtamtliche Nachrichten』です。リュカスの伝記La vie et l'esprit de Mr.Benoit de Spinozaとかコレルスの伝記Levens-beschrijving van Benedictus de Spinozaというのは広く知られていたわけではなく,これを世に広く知らしめたのはフロイデンタールの功績であったといっていいでしょう。
 一方,第二版の発行に尽力したゲプハルトは,この時代のスピノザ研究の第一人者です。岩波文庫版の『エチカ』の底本は,ゲプハルトが編集したものです。したがって,スピノザのまとまった伝記としては,資料としての価値が非常に高いものです。もちろん,フロイデンタールが最初に書いたときからは1世紀以上が経過しているので,その後の研究で覆されている部分も含まれます。しかし現代の伝記,たとえば『ある哲学者の人生Spinoza, A Life』なども,多くの事柄の参考としてこの著書を示しています。
 
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印象的な将棋⑫-4&Kさん

2017-01-08 19:07:30 | ポカと妙手etc
 結論からいうと⑫-3の第1図から第2図に至る先手の手順は悪い手順で,部分的な定跡とされる手順で応ずるほかなかったようです。それは第2図では後手に好手があったからです。それが☖4五銀。
                                     
 ここで香車を取ってしまうと☖3六銀と強襲されても先手がいけないようです。なので☗同桂と取ったのですが☖同飛。
 先手は1筋で歩を2枚使ってしまったので,☗4六歩と受けることができなくなっています。仕方がないので☗4六銀打としました。後手は☖4一飛。
 ここでも☗1六歩と取りたいところなのですが,☖6六角☗同角☖5七銀という強襲があってやはり先手がいけないそうです。よってここも☗5五歩と受けることになりました。
                                     
 第2図でよい攻めがなければ先手は香車を取れそうです。ですが変わった筋がありました。

 5月31日,火曜日。本牧からの帰りにI歯科に寄り,予約を入れてきました。
 6月1日,水曜日。母が教職員時代の同僚たちとの昼食会に出掛けました。
 このとき,母と一緒に食事をされた方の中に,Kさんという方がいます。僕が知る限り,母の同僚の中で最も母と仲が良かったのはこの方だと思います。出身が秋田で,母の母すなわち僕の祖母と同郷であったこと,また,特別支援クラス,当時でいう特殊学級を担当されていたことなど,仲良くなる契機がいろいろとあったためでしょう。母の異変の直後から特別養護老人ホームに移動する間,祖母は有料老人ホームに入所していましたが,ここはKさんの自宅に近く,母が行かれないこともあり,何度か見舞いにも行ってくれました。つまり祖母とも知り合いでした。もちろん僕もこの方はよく知っています。たぶん僕が3歳のときから母が勤務し始めた学校での知り合いで,僕もその頃から知っていて,家に遊びに行ったこともありましたから,僕とでも40年以上前からの知り合いであるということになります。この昼食会の少し前に旦那さんを亡くされたのですが,死因が癌でした。母も末期癌の父を看取ったということもあり,その点では先輩であり,いくらかのアドバイスもしていたようです。このときの食事会には,仲のよかった人たちで,Kさんを励まそうという意図があったのではないかと思います。
 6月3日,金曜日。水曜日に予約を入れておいた歯科検診の日でした。午前11時から。この日はクリーニングだけで,特別な注意を与えられることはありませんでした。
 6月6日,月曜日。妹の遺伝科の通院。午後1時から。身体測定だけ行ったとのことで,午後3時過ぎには帰宅したようです。僕は屏風浦に行っていまして,帰ったのは4時半でした。
 6月7日,火曜日。解体工事で更地になっていた区画には,3階建ての住居が2軒並んで建築されるという旨の報知は,4月1日にあったものです。実際に建築の工事が始まったのはこの日でした。9月末に完成予定となっていました。
 6月9日,木曜日。妹の宿泊訓練の日でした。これは例年と同じで1泊です。
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鳳凰賞典レース&2016年5月の通院

2017-01-07 19:06:06 | 競輪
 被災地支援競輪として行われた立川記念の決勝。並びは石井‐小埜の千葉,深谷‐吉田の愛知,北津留‐岩津の西国で新田と平原と稲垣は単騎。
 岩津がスタートを取って北津留の前受け。3番手に石井,5番手に平原,6番手に稲垣,7番手に深谷,最後尾に新田で周回。残り3周のバックを出たところから深谷が動き始めると,直前にいた稲垣が先に前に出て,ホームの出口では北津留に並び掛け,誘導の後ろが併走に。稲垣を追っていた深谷がバックに入ってから発進。誘導も交わして前に出たところで打鐘。うまく稲垣が3番手を確保し,北津留はその後ろ。愛知ラインを追っていたのは石井で,こちらも動いて稲垣の外の3番手で併走。小埜の後ろに平原と新田が続きました。石井はホームから動いていきましたが深谷に合わせられ,コーナーでは浮いてしまい脱落。小埜は浮きませんでしたが,バックに入ったところで岩津がうまく小埜の後ろの平原を牽制したので,平原は動けず岩津の後ろに入りました。バックの出口の手前から稲垣が発進するも車は前に出ず。しかしコーナーから直線と深谷が内を開けて走行したために,稲垣の後ろにいた北津留がそこを突き,直線でも内から深谷を交わして優勝。マークの岩津も1車輪差の2着に続いて西国ラインのワンツー。岩津を追った平原が半車身差で3着。
 優勝した福岡の北津留翼選手は11月の防府記念以来の記念競輪優勝で通算4勝目。立川記念は初優勝。このレースはラインが細分化した上に,グランプリに出走した選手も多く,そうした選手にどこまで余力が残されているかという問題もあったので非常に難解。石井は近況から苦しいかと思っていましたが,グランプリを走った単騎の選手よりは,ラインのある深谷と吉田が有利かなと見立てていました。見立て自体はそう間違っていなかったと思いますが,優勝はもうひとつのラインから出ることに。結果的にいうと前を取ったのがいい作戦で,バックで岩津が平原を弾いた仕事ぶりも光りました。インが開いたのは幸運だったと思うのですが,あるいは深谷はきっと内を開けて走るだろうという確信があったのかもしれません。防府記念を優勝した後もわりと安定した成績を残していますので,今後の注目選手のひとりだと思います。

 5月30日,月曜日。内分泌科の通院の日でした。
 病院に着いたのが12時40分ごろ。中央検査室の採血は僕が次という順番になっていましたので,注射針の処理だけ済ませ,採血した後で採尿しました。この日も診察の予約は午後3時でしたから外食へ。
 K先生が退職されましたから,この日から主治医がまた新しくなります。こういうことはもう何度も経験していて,概してこういう場合は予約時間から大幅に遅れて診察が始まっていました。主治医の変更というのは僕にだけ該当するわけでなく,おそらくここに通院しているすべての患者にとって同じでしょうから,初顔合わせの挨拶などもあって,普段よりは診察時間が長くなるからだと思われます。だからこの日もそうだろうと思っていたのですが,意外にも3時5分過ぎには僕の名前が呼ばれました。
 この日から主治医になったのはH先生で,40代前半と思われる男性医師です。診察に使うのはK先生も使うことがあった4番の部屋で,この部屋での診察は一貫しています。そしてH先生は患者を呼び込むのに放送だけを用います。受付の横に電光掲示板があって,そこの番号が点灯することで自分の順番になったということをこれまでは知っていたわけですが,H先生はこの掲示板は使いません。
 HbA1cは7.3%でした。そしてこの日はこれ以外には異常はありませんでした。
 H先生は,7.3%という数値は,Ⅰ型糖尿病としては必ずしも好ましいとはいえない面があって,もう少し高くてもよいという意味のことを言いました。低血糖を発症すると,合併症を発症するリスクはむしろ高まるからで,もしも低血糖があってこれくらいの数値になっているのなら,もう少し高くても構わないというのが話の全体の主旨でした。基本的に血糖値が80㎎/㎗を下回らないようにすることを目標として,その結果としてHbA1cの値が高くなるのは問題視しないということになり,また,低血糖の発症を防ぐために,インスリンの注射量については,僕に任せるということでした。この日以降も,基本的にH先生は注射の量に関しては,僕の方で柔軟に対応することを求めます。
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チャボの暴挙&職員の不足

2017-01-06 19:05:36 | NOAH
 僕にとって全日本プロレス時代の大仁田厚は,チャボ・ゲレロにトロフィーでめった打ちにされたレスラーという印象が最も強く残っています。そしてこの一件は今でも結構な謎です。
 プロレスではライバル関係を構築するために試合後に乱闘するということはあります。ですがあの一件はその種の乱闘にしてはやり過ぎのような気がします。大仁田は負傷して欠場することになったのですから,これでは何らかの意味をつける乱闘とはいえません。何らかの事情で大仁田が欠場しなければならなかったので,チャボがわざと負傷させたということは考えられなくないのですが,当時の大仁田にそういう事情があったとも思えないのです。
 だとするとあの行為は,チャボが私的な怒りを爆発させた行為であったように思えます。大仁田の何がチャボを怒らせたかはまた分からないのですが,行為だけの説明なら,こちらの方が僕にはしっくりきます。
 しかし試合後とはいえリング上で私憤を爆発させるというのは,プロとしてはあるまじき行為といえるでしょう。そんなことをすればプロモーターの怒りを買うのが必然で,それ以後はそこで仕事ができなくなるおそれがあります。ところがプロモーターである馬場は,その後もチャボを呼び,大仁田と戦わせているのです。なので単にチャボが私的な怒りを爆発させただけだとも思えないのです。
 馬場がその後もチャボを来日させたという点からみるなら,あれは馬場も合意済みの暴挙であったか,そうでなければチャボが私的な怒りを爆発させたことに合理的な理由があると馬場がみなしたので,プロとしてあるまじきと思えるような暴挙を犯したことについて馬場はチャボを許したかの,どちらかであったのではないかと僕は推測します。ただ,やはりどちらも非合理的な要素を有しています。前者であれば,なぜあのような暴挙を犯すことについて馬場が肯定したのかが謎です。後者であるなら,あれほどの暴挙を犯しても馬場が理由あることと判断するような怒りを,大仁田の何がチャボに対して与えたのかが謎だからです。

 5月21日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は午後2時から。実はこの日は土曜出勤だったのですが,一種のダブルブッキングになってしまい,作業所の方を休みました。これは異例のことですが,4月の末から5月の初めにかけて月をまたいで渡米していた影響です。作業所の翌月の日程は,前月末に知らされます。なので5月の土曜出勤がいつであるのかということについては,11日に帰国するまで母は把握できていませんでした。一方,ピアノの方は渡米前の段階で,この日にレッスンを行うということが確定していたのです。つまり先約の方を優先した結果,異例の対応ということになりました。
 5月22日,日曜日。母と妹が県民ホールに出掛けました。これはピアノの先生も出演するコンサートがあったためです。前にいったことがあったかもしれませんが,現在の妹のピアノの先生というのは,ピアノ講師自体は副業です。本業は楽器ではなくて歌唱。つまり先生が出演するというのは,演奏するということではなくて歌うということです。正午から午後2時半までという予定になっていました。帰宅したのは午後4時15分すぎ。予定通りに終了してすぐに帰ればこんなに時間が掛かる筈もないので,時間が延長したか,あるいは終了後に先生に会っていたものと思います。
 5月23日,月曜日。妹のショートステイ。これは磯子区の施設を利用しての1泊。ただ,この日は母が送って行きました。ショートステイがある日は荷物が多くなる関係で朝の迎えを依頼していたのですが,このサービスが中止になったからです。年度が替わって4月になってから,施設は職員の不足が深刻化していました。このために送迎というサービスは,緊急のときに,5キロ圏内に限って実施されるということになったのです。作業所ないしは施設と僕の家との距離は5キロも離れてはいませんが,荷物が多いというのは緊急事態ではないため,迎えを要請することはできなくなったのです。僕はこの日は白楽に行ってましたが,午後4時半には帰宅しています。
 5月24日,火曜日。妹が帰る日。前述の事情によりこのときも母が迎えにいきました。
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記者の好意&伯母の義母

2017-01-05 19:35:40 | 歌・小説
 『悪霊』における作品内作者である記者の人物評は,物語そのものとは関連性が薄いステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホヴェンスキーに対するものを除外すれば,わりと公平な視点に貫かれていると僕は読みました。実際,記者が冒頭で才能豊かで最も尊敬すべきという形容をヴェルホヴェンスキーに与えるとき,同時にこれは本題の物語のほんの前置きであると記述していて,そうであるから記者はヴェルホヴェンスキーにだけは,好感を抱いていることを隠す必要を感じなかったのだろうと僕は思うのです。
                                     
 しかし,これとは異なった読解というのが存在しています。それは亀山郁夫の『謎解き『悪霊』』にみられるものです。
 この中で亀山は,記者はヴェルホヴェンスキーとは親密な関係を有しているとしていて,これは僕と同じ見解です。もっとも,このことは『悪霊』を読めばだれでも気付くことだといえるでしょう。ですがもうひとり,記者はリーザにも強い好意を抱いているのであって,見方によっては恋している可能性もあるとしています。亀山は具体的なテクストをあげていないので,なぜそういえるのかは僕には分からないのですが,亀山ほどの人がそういうのですから,そう読解できる何らかの根拠があるものと思います。
 僕には分からないのですが,その読解が正しいなら,リーザの死の場面で叫び声をあげたのが記者であるという可能性もあり得ることになるのではないでしょうか。リーザに恋していた記者が,直前までスタヴローギンと会っていたリーザに対して激しい憎悪に駆られ,リーザの身を危険に晒すということを承知の上でリーザをなじるということは,因果関係の序列としては非合理的ではないからです。つまりこのとき記者はリーザに対する恋心の裏返しとして,リーザを殺してやりたいと思うほどの憎しみを抱き,その欲望の代行をだれかがすることまで考慮に入れ,叫んだということがあり得ることになります。
 前にもいいましたが,スタヴローギンが欲望の代行をさせた火事現場に,ミニ・スタヴローギンたる記者が存在したという読解は僕にはとても魅力的です。その魅力的な読解が成立する要素が,亀山の読解のうちにはあるのです。

 母と妹が帰国したのは5月11日の水曜日でした。僕はこの日は午前中に本牧に行っただけで,午後は家にいました。もっとも,ふたりが家に着いたのは午後10時でしたから,この日の夕食までは僕ひとりだったことになります。
 この渡米中,5月5日に伯母の夫の母,つまり伯母の義母が亡くなったそうです。もちろんこれは偶然で,具合が悪いと知って渡米したわけではありません。彼女が倒れたのは祖母の死があって伯母が来日していたとき,2011年12月で,そのまま緊急帰国しました。高齢でしたがこのときは回復し,退院後は老人ホームで暮らしていました。放置していたわけではなく,定期的に伯母は面会し,身の回りの世話もしていました。もっとも,伯母の夫には姉妹がいましたので,伯母がひとりでそうしたことのすべてをこなしていたわけではありません。もしそうであれば伯母はその後は来日することもままならなかったでしょう。とはいえ,それが伯母にとって負担となっていたのは事実で,母が渡米するようになったのは,負担をいくらかでも軽減するためであったのです。
 死因とか,そのときの状況は僕はよく分かりません。ただ,こうしたいい方は不適切であるということは重々承知の上でいいますが,ちょうど最期のときに立ち合うことができ,葬儀にも参列できたのですから,このタイミングで渡米したのはよかったのではないでしょうか。
 5月14日,土曜日。妹のピアノのレッスン。午後3時半から。これは前々日に先生から連絡があったものです。ただ,そのときは家にだれもいませんでしたので,留守番電話に入っていた連絡でした。
 5月18日,水曜日。母と妹が美容院へ。本当なら15日の日曜日に行きたかったのですが,その日は予約が取れませんでした。水曜日は妹がほかの日よりも1時間早く作業を終了しますので,その分だけ早く帰ることができる日を選んだようです。母が根岸駅まで迎えに行ってそのまま美容院に直行したとのこと。僕はこの日は川崎で,午後5時20分に帰りましたが,ふたりは不在でした。帰ったのは午後6時半でした。なおこの日の午前中,母は歯科検診にも行っています。
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第三部定理一五系&打ち忘れ

2017-01-04 19:27:14 | 哲学
 第三部定理一五には必然的な帰結がひとつ含まれています。それが第三部定理一五系です。
 「我々は,ある物を喜びあるいは悲しみの感情をもって観想したということだけからして,その物自身がそうした感情の起成原因でないのにその物を愛しあるいは憎むことができる」。
 訳文上の注意が必要で,最後に愛したり憎んだりできるというのは,人間にはそういう能力があるという意味ではありません。単にそういう傾向を有するとか,あるいは必然的にそうなるという意味であって,愛しあるいは憎んでしまう,といった方がこの系のいわんとすることを正しく解せるのではないかと思います。
 第三部定理一四から,どんなものも偶然に基本感情affectus primariiの原因となり得ることは分かります。そして第三部定理一二第三部定理一三というのは人間に一般的に成立する定理Propositioです。ですから偶然の原因,この系のいい方に倣えば感情の起成原因ではないとしても,あるものを観想して喜びlaetitiaを感ずれば僕たちはそのものを表象しようとする傾向を有しますし,悲しみtristitiaを感じたなら,その存在を排除するものを想起しようとする傾向を有します。ところで,第三部諸感情の定義六によれば,外部の原因の観念を伴った喜びLaetitia, concomitante idea causae externaeが愛といわれ,第三部諸感情の定義七によれば,外部の原因の観念を伴った悲しみtristitia, concomitante idea cause externaeが憎しみといわれるのでした。したがって僕たちは,Aが喜びの起成原因ではなくても,偶然に喜びの原因となった場合には,Aを愛するということになります。逆にAが偶然に悲しみの原因となった場合には,Bが悲しみの起成原因ではなくてもBを憎むことになります。
 繰り返しになりますが,こうしたことは必然的に生じるのです。したがって受動passioに従属している間は,僕たちは脈絡なしに多くのものを愛し,また多くのものを憎むことになります。受動から完全に逃れることは不可能なので,このことは肝に銘じておいてよいことだと思います。

 母と妹がいる場合と,僕がひとりの場合では,僕がこなさなければならない家事というのは必然的に増えます。したがって生活のパターンも変化が生じます。不在の場合の方がずっと少ないですから,その少ないパターンの生活に入ったときに,注射の打ち忘れををしやすくなるというのは,蓋然性からしても妥当な説明になっていると思います。
 4月21日の昼食前に打ち忘れたというのは,おそらくそうであったということであり,断定することができるわけではありません。ただ,その日の夕食前に打ち忘れたという可能性はかなり薄いと思われます。というのも,インスリンを携帯するバッグに移し替えた注射針の残量が合わないというのは,残量が偶数であるか奇数であるかによって判明するのです。朝の注射をし終えた時点でいえば,奇数でなければならないのですが,22日は偶数だったのです。夕食前には超即効型のヒューマログと持続効果型のランタスの両方を注射します。つまり2本の針を使うので,打っても打たなくても残量が偶数か奇数かに変化はありません。片方だけ打ってもうひとつは忘れるというのは考えづらいので,やはり21日の夜はきちんと注射したと思うのです。そしてその注射を打つ前に血糖値を計測しているのですが,それが224㎎/㎗と,この時間帯にしては異常に高くなっていました。こうした状況から推測しても,やはり打ち忘れたのは21日の昼食前であったと思われます。
 22日はその後,O眼科に行って網膜症の検査をしてきました。結果は異常なしでした。この日は診察を受ける患者が多かったこともあり,時間が掛かりました。もしかしたらゴールデンウィーク前という時期的な影響があったかもしれません。また,眼科検診のときには糖尿病眼手帳というのを持参します。最初にここを受診したときにもらったものですが,その手帳に医師が記入する箇所が前回の検査のときにすべて埋まっていました。それでこの日からこの手帳が新しくなりました。新しいものはそれまでのものよりサイズが一回り大きくなっています。
                                
 この後,母と妹が帰国するまで,特記すべきことは何もありませんでした。
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報知オールスターカップ&新しいフレーム

2017-01-03 19:28:37 | 地方競馬
 岩手から1頭,金沢から2頭,高知から1頭が遠征してきた第53回報知オールスターカップ。張田昂騎手が負傷のためインフォーマーは酒井忍騎手に変更。
                                     
 発走後の向正面ではジャングルスマイル,ムサシキングオー,サミットストーンの3頭が前をいく形。互いに牽制していたようですが,ジャングルスマイルは控え,1周目の正面ではムサシキングオーとサミットストーンが並んで逃げる形に。3番手に進出してきたのがタイムズアロー。控えたジャングルスマイルはドラゴンエアル,ケイアイレオーネと並んでその後ろ。1コーナーを回るとムサシキングオー単独の逃げになり,サミットストーンが2番手となりましたが,残念ながらサミットストーンは向正面で競走中止。その間に先行勢の後ろを,インフォーマー,シグナルプロシードと並んで追っていたクラージュドールが内目から進出していきました。ペースはスロー。
 サミットストーンがいなくなったので3コーナーを回るとムサシキングオー,タイムズアロー,ケイアイレオーネの3頭が雁行に。そしてコーナーの間に外を捲ったケイアイレオーネが先頭で直線に。そのときの勢いのわりには差をつけることができず,直線では外に出されたクラージュドールに対しては差を詰められましたが,危ないという感じでもなく優勝。半馬身差の2着にクラージュドール。クビ差の3着にタイムズアロー。アタマ差で4着のムサシキングオーまで接戦でのフィニッシュでした。
 優勝したケイアイレオーネは5月の大井記念以来の勝利で南関東重賞は2勝目。完走した馬の中では上位4頭が力上位で,その中で距離および斤量面では最も優位でした。不安だったのは左回りよりは右回りの方がよい結果を残せていたという点で,着差は少しでも左回りで結果を出したのは今後に向けても明るい材料といえるでしょう。南関東の長距離戦線では今後も大きく崩れることはない馬だと思います。従姉の子に2014年のエーデルワイス賞を勝っている現役のウィッシュハピネス。Leoneはイタリア語でしし座。
 騎乗した大井の的場文男騎手はサンタアニタトロフィー以来の南関東重賞制覇。第23回,24回,31回を勝っていて23年ぶりの報知オールスターカップ4勝目。管理している佐宗応和調教師は報知オールスターカップ初勝利。

 4月7日,木曜日。この日は午前中に本牧に行き,午後はオフでした。なので眼鏡屋に行き,破損してしまった眼鏡をみてもらいました。鼻あての部分が折れてしまったというのは,ネジが緩んで鼻に当てるパットの部分が取れてしまったというのではありません。パットとフレームとを繋いでる細い部分が折れてしまったのです。ですからこれは修理することはできないだろうと思っていましたが,やはりその通りで,フレーム自体を新調する必要が生じました。ただ,この日の時点ではレンズに適合するフレームが店舗にはありませんでしたので,すぐ取り寄せてもらうという手筈だけを整えて帰宅しました。
 4月8日,金曜日。この日は長者町でした。この日の午後であればすでにフレームを取り寄せ,レンズも嵌めてあるということでしたので,帰途にまた眼鏡屋に寄り,新しいフレームの眼鏡を入手しました。18000円の出費でした。なお,フレームに関してはこだわりがある人もいるでしょうが,僕はそんなことはなく,使えるのならばどんなデザインであろうと構わないくらいに思っています。店舗には在庫がなかったフレームを1日で取り寄せることが可能だったのは,僕がフレームの種類については何も注文をつけなかったからだったかもしれません。
 4月10日,日曜日。妹のピアノのレッスン。この日は前夜に先生から連絡が入り,午後4時半の開始でした。
 4月16日,土曜日。妹の土曜出勤。この日は三渓園を散策したようです。
 4月17日,日曜日。母と妹が美容院に。
 4月20日,水曜日。母と妹が渡米しました。僕はこの日は川崎で,帰ったのは午後5時50分でした。当然ながらこの時間ではふたりは不在で,この日の夕食からはしばらく僕ひとりでした。
 4月22日,金曜日。朝食前にインスリンの注射を打ったときに,針の残量が合っていないことに気付きました。おそらく前日の昼食前に打ち忘れたのではないかと思われます。注射をするようになってから打ち忘れというのはこれが3回目。前回,2015年5月に打ち忘れたときもふたりの渡米中でしたから,ひとりのときに忘れやすくなるのでしょう。
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KEIRINグランプリ2016&鼻あて

2017-01-02 18:58:56 | 競輪
 12月30日に立川競輪場で争われたKEIRINグランプリ2016。並びは新田‐渡辺の福島,平原‐武田の関東,稲垣‐村上の京都に岩津で浅井と中川は単騎。
 スタートの取り合いという意外な発走。取ることに成功したのは村上で稲垣の前受けに。4番手に浅井,5番手に平原,7番手に中川,8番手に新田という周回。新田が残り3周のバックの入口からという早い動き。そのまま誘導を抜いて先頭に立ってしまいました。今度は平原が動き,新田の前に出ると稲垣も呼応。残り2周のホームでは平原を叩いて前に。浅井もこれに続いたので4番手。5番手に平原,7番手に新田,最後尾に中川という一列棒状に。打鐘を迎えても動く選手はなく,残り1周のホーム前から稲垣が本格的にスピードを上げました。バックに入ってから平原が仕掛けると稲垣との車間を開けていた村上が番手捲りで対抗。この力勝負に勝った村上が優勝。力尽きた平原の番手から武田が伸びて4分の1車輪差の2着。4番手から自力で外を伸びた浅井が半車身差の3着。
                                     
 優勝した京都の村上義弘選手は4月の高知記念以来の優勝。ビッグは3月の日本選手権以来の13勝目。グランプリは2012年以来4年ぶりの2勝目。立川では2013年に日本選手権を勝っていて,昨年,というのはグランプリ当日からみるので2015年のことですが,記念競輪の優勝もあります。平原や新田は好んで先行するタイプではないので,稲垣の先行になることが濃厚。浅井や中川も自力で勝負するタイプなので,ことによるとこのようなあっさりとしたレース展開になる可能性もあるかとは思っていました。稲垣にあれくらいの位置から先行されて,さらに村上の番手捲りの上を行くというのはかなり困難なのではないでしょうか。稲垣を最大限に生かせた村上の利が大きかったというレースであったと思います。

 書簡五十六に関係する一連の論考はここまでとします。このことおよび破門された当時のスピノザの心境について考察する契機となった『破門の哲学』の再読を終えたのは昨年の3月17日のことでした。以降の日記に戻ります。
 3月19日,土曜日。ガイドヘルパーを利用しました。この日はカラオケでした。
 3月24日,木曜日。母とふたりで日野公園墓地へ父の墓参りに行きました。これは彼岸の墓参です。この日は朝のうち雨が降り,その後で雨があがって曇りという天候でした。この天候の関係で,いつもより遅く,正午を回ってから家を出ました。普段は先に墓参りを済ませてから昼食を摂って帰宅するのですが,この日は食事を先にして,その後で墓地に向いました。帰宅したのは午後2時45分頃です。僕は所用がありましたので,その後で本牧に出掛けました。
 3月26日,土曜日。妹のピアノのレッスンがありました。この日は午後5時半から。
 3月27日,日曜日。この日もガイドヘルパーを利用しました。先週がカラオケでしたからこの日はボーリングです。
 4月1日,金曜日。北側の家の解体工事の後,更地になっていた土地で新築工事が開始されるという報知がありました。3階建ての住宅を2軒並べて建築するという内容でした。現時点ではもちろんこの住宅は完成しています。そのうちの一軒,これは南北に横並びになっていますが,北側の一軒にはすでに入居者もいます。僕はこの日は港南台に行っていましたが,午後4時には帰宅しています。
 4月3日,日曜日。妹のピアノのレッスン。この日は前夜のうちに先生からの電話が入り,午後2時からになっています。
 4月4日,月曜日。妹がショートステイに。南区の施設を利用しての1泊2日でした。僕はこの日は長者町で,午後4時45分頃に帰りました。その後で,日常的に使用している眼鏡の鼻あての部分が折れてしまいました。2011年に眼鏡の破壊という出来事があり,新しい眼鏡を作りました。そのとき,壊れた方も修理しましたので,さしあたってそちらの度がいくらか薄い予備の眼鏡の方を少しの間だけ用いることになりました。
 
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