コスモのフォトアルバム

旅の記録 五街道ウォーク中!旧東海道、旧甲州街道、旧中山道を完歩。只今、日光街道に挑戦中!    

絵島囲み屋敷~長野県伊那市高遠町東高遠

2015-04-27 18:56:11 | 建築物(洋館以外)

2015年4月18日 長野県

絵島囲み屋敷

長野県伊那市高遠町東高遠

大奥の女中から大年寄にまで上り詰めた絵島(1681~1741)は、幕府内部で激化した権力闘争に巻き込まれ、不義の罪で江戸から高遠に遠流[おんる]されてしまう。こうして61歳で生涯を終えるまでの28年間、囲み屋敷に幽閉されることになる。歴史博物館の敷地内に見取り図を元に当時の屋敷が復元され、一般に公開されている。8畳1間と湯殿などがあるだけで朝夕の2食(一汁一菜)のみ、読書や外部との交流も許されず、極めて質素な生活を余儀なくされていたという。周囲を囲む塀の忍返が、その過酷さを物語っている。るるぶ.com

 











cosmophantom
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高遠閣(高遠城内)~長野県伊那市高遠町

2015-04-25 21:40:26 | 建築物(洋館以外)

2015年4月18日 長野県

高遠閣(高遠城内)

長野県伊那市高遠町

高遠閣は昭和11年(1936)に、観光客の休憩所や町内の集会所として高遠城内に建てられた建物です。建設にあたり旧高遠町出身の池上秀畝(日本画家)・小松伝一郎(弁護士)・広瀬省三郎(鉱山経営者)・矢島一三(出版業者)らが中心となり自らが出資又は寄付を募り尽力しました。建物は木造2階建て、入母屋、鉄板葺(元こけら葺)、桁行き14間(25.4m)、梁間9間(16.4m)、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ、2階は略全面が引き戸欄間付きの開口部で1階と2階の間は小庇を設け曲線の方立で支えています。玄関屋根は寺院などの唐破風向拝風、その上部の1階屋根にも唐破風や千鳥破風を設ける事で正面性を高めています。長野県伊那市高遠町:観光・旅行見所ナビ

関連記事:高遠城跡(100名城)~長野県伊那市高遠町

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高遠城跡(100名城)~長野県伊那市高遠町

2015-04-24 06:10:41 | 100名城

2015年4月18日 長野県

高遠城跡 100名城

長野県伊那市高遠町

高遠城は三峰川と藤沢川に削られた断崖上の突端にあって、段丘の上から見れば平城のようであるが、他の三方から見ると川敷きから 80mの高い丘の上にある山城の姿をしているので、平山城といわれている。この地方は古くから諏訪氏の勢力圏内にあって、南北朝の頃からその支 族である高遠氏が高遠地方を支配していたが、天文年間武田信玄の侵略にあい、その旗下に属した。高遠は諏訪から伊那に入る門戸であり、駿河・遠江に進出す るためには重要な地点であるため、信玄は天文16年(1547) 家臣秋山信友・山本勘助らに命じ、この城を拡張改築させた。その規模はおおきくないが、当時の進歩した築城技術と、武田流兵法を勘案して築いたといわれ、 城としての必要条件はみな備えた名城である。上伊那各地の諸城は江戸時代になって全く廃されたが、高遠城だけは大名の居城として明治維新まで存続した郡下 唯一の城郭である。伊那市観光協会公式ホームページより

※ 妻と母の目的は高遠の桜!当方はお城巡り!花見の人出が多くじっくりと城址を見ることができず、残念。

 

満開だ!

グランドゲートより入城

▲ 空堀

▲ 高遠閣

▲ 桜雲橋を渡り本丸へ

▲ 新城藤原神社

 ▲ 本丸あたり? ▼

▲ 遠方の山は中央アルプスかな?

▲ 太鼓櫓 ▼ 時を知らせた。

 

 

 

▲ 白兎橋

▲ 南ゲートより退城

大手門と二の丸
 

この門は高遠高等学校が、この地にあった昭和五十九年(1984)まで正門として使用されていた。明治五年(1872)新政府から城郭の取り壊しを命ぜられ、城の建造物や樹木は、競売に付されすべて取り払われた。当時、城内には大手、二ノ丸、本丸、搦手の四つの櫓門(間口五~六間、奥行き二間の二層門)があったが、いずれも競売されて民家や寺院の門として払い下げられていった。この門は、そのうちの一つで大手門といわれているが、その形は切り詰められ当時の姿ではない。昭和二十九年(1954)に高遠高等学校の正門として、伊那市富県の那須退蔵氏(亡)より寄贈を受け移築されたものである。

関連記事:高遠閣(高遠城内)~長野県伊那市高遠町 

cosmophantom 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白骨温泉にて~長野県松本市安曇

2015-04-22 18:53:13 | 温泉街

2015年4月17日・18日 長野県

白骨温泉にて

長野県松本市安曇

開湯から数百年の歴史を持つ白骨温泉。北アルプスの南、乗鞍岳の標高1,400メートルにある渓谷に湧く。温泉の石灰分の結晶が湯船を白くすることから、昔は「白船(しらふね)」と呼ばれていた。大正時代の新聞連載小説「大菩薩峠」に、「白骨温泉」の名で登場し、そのまま現在の名称となった。 「ゆこゆこ」より

  

4月17日 夕方
 

▲ 白骨温泉にある二つのつり橋のうちの一つ。残雪のため近づけず。

▼ 竜神の滝

 

▲ 雪解け水だろうか 勢いが凄い!

温泉成分が析出している

 

 

  

▲4月18日 早朝の気温は3℃!!

▲ 大黒石:自然石なのかな?

▲ 薬師堂

 

▲ ? ▼

▲ もう一つのつり橋
 

▲ 飲泉所 ▼

▲ 温泉成分が析出している

白骨温泉の噴湯丘と球状石灰石:太古に湧出した白骨温泉の湯には、炭酸石灰成分が多く含まれる。そのため噴出した場所には沈殿物が多く付着して幾重にもなった「噴湯丘」が見られる。この沈殿物のなかには世界的にもたいへん珍しい球状の石灰岩が含まれ、国の天然記念物に指定されている。白骨温泉公式ホームページより

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縄手通りなど2015~長野県松本市大手

2015-04-21 07:43:26 | 町並み

2015年4月17日 長野県

縄手通りなど2015

長野県松本市大手

松本市中心部を流れる女鳥羽川沿いにある商店街。「カエルの町」の愛称で市民からも親しまれている。2001年はじめに通り沿いの建物を武家屋敷長屋門風に、通りを石畳に整備。古美術店やそば屋など昔ながらの店と、オープンカフェやレストランなどお洒落で新しい店が混在。歩いて楽しい町並みになった。カエルが出迎える武家屋敷長屋門風商店街 「じゃらん」より

 

▼ 四柱(よばしら)神社

長野県松本市大手

天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神の四つの神を祭神としていることから名称がついた。全ての願いがかなう「願いごとむすびの神」として知られている。

 

 ▼ 大名町
 

▲ モチーフは「松本てまり」

城下町として長い歴史を持つ松本には、古くから伝えられた数多くの優れた手工芸品が生み出され育まれてきました。その中でも「松本てまり」は約200年前(江戸時代)に生まれ、歴代の当主 が好んで作らせたといわれ、後に幼い子供たちの玩具として親しまれていました。松本匠展示館ホームページより

 cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

松本城2015(100名城)~長野県松本市

2015-04-20 05:56:32 | 100名城

2015年4月17日 長野県

松本城2015 100名城 国宝

長野県松本市

松本城(まつもとじょう)は、長野県松本市にあった城である。安土桃山時代末期-江戸時代初期に建造された天守は国宝に指定され、城跡は国の史跡に指定されている。松本城と呼ばれる以前は深志城(ふかしじょう)といった。市民からは別名烏城(からすじょう)[1]とも呼ばれている。しかし文献上には烏城という表記は一切ない。

戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、松本平の信濃府中(井川)に井川館を構えていた信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。後に甲斐の武田氏の侵攻を受け小笠原氏は没落、武田氏は林城を破棄して深志城を拠点として松本平を支配下におく。武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が旧領を回復し、松本城に改名した。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の結果、徳川家の関東移封が行われ当時の松本城主小笠原秀政も下総古河へと移った。代わりに石川数正が入城し、石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭・城下町の整備を行う。その後、大久保長安事件により石川康長が改易となり、小笠原秀政が返り咲く。大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。享保12年(1727年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。

※ 2013年10月10日以来の訪問 前回は月見櫓が改修工事中でしたが。。。。。

▲ 入場前に松本城が見える(松本城公園より) ▼

▲ 内堀より

▲ 黒門から入城

黒門は、松本城本丸へ入る正門にあたり、櫓門と枡形から構成されています。本丸防衛のための要の門でした。一の門(櫓門)は昭和35年(1960年)に復興し、二の門と袖堀は1989年(平成元)12月1日に復元されました。松本観光情報

▲ 桐の紋は秀吉が使用していた紋 石川数正が城主時代のものか?

 

▲ 天守

 ▲ 小天守

▲ 前回改修工事中だった月見櫓
 

天守内部
  

▲ 埋の橋

 ▲ 懸魚(げぎょ)芯材(展示品)

 

船載砲:中世末ころ、ガレー船に積載されていたのも

▲ 武者窓

▲ 天守最上階

▲ 城を守る二十六夜神

▲ 月見櫓より

-----

黒門

-----

太鼓門

太鼓門は文禄4年(1595)建築 平成11年3月復元

▲ 玄蕃石(げんばいし) 推定重量26t超

外堀

清正公駒つなぎの松 清正とは加藤清正のことでしょう。たぶん・・・・

宇宙ツツジ:向井さんが宇宙船の中で発芽させたツツジ

Who are you?

 ▼ 松本城公園より

桜は散り始めていた

2013年10月10日 松本城

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本大通りなど~神奈川県横浜市

2015-04-16 20:48:37 | 町並み

2014年11月24日 神奈川県

日本大通りなど 神奈川県横浜市

▼ 不明

 
 ▼帝蚕倉庫株式会社 
 



▼不明
 ▼東京芸術大学 
 
 ▼ 横浜銀行協会 横浜銀行倶楽部



 ▼中央の塔は横浜市開港記念会館(開港記念横浜会館)


▲ 赤レンガ倉庫 

▲元町

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本丸(内部)~神奈川県横浜市

2015-04-15 19:52:31 | 船舶

2014年11月24日 神奈川県

日本丸(内部)

神奈川県横浜市







 






▲きせる型通風筒

  





 






 

 ▲船長公室



 ▲ 通信長室 



 ▲ 船医室
 ▲ 無線室






 
 
 
関連記事:日本丸(外観)
 
 
2015-04-15 19:52:31
☆cosmophantom
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本丸(帆船)(外観)~神奈川県横浜市

2015-04-14 05:41:56 | 船舶

2014年11月24日 神奈川県

日本丸(外観)

神奈川県横浜市西区

日本丸は、1930年1月27日、兵庫県神戸市の川崎造船所で進水した。日本の航海練習船で大型練習帆船。その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれている。日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年に引退した。航海練習船としての役割は日本丸II世が引き継いだ。 Wikipediaより

 

 

 

 関連記事:日本丸(内部)

2015-04-14 05:41:56

 cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸城2014(坂下門から乾門へ)

2015-04-11 10:18:43 | 100名城

2014年12月3日 東京都

江戸城 100名城

東京都千代田区

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里[出典 2]と、日本最大の面積の城郭になった。徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。Wikipedia

坂下門から入城

▲宮内庁庁舎

▲富士見櫓?

▲道灌濠

▲乾濠と石垣▼

▲ 乾門から外へ

江戸城 その2 石室・中雀門跡・ 大番所など

江戸城 その3

田安門(重要文化財)  清水門(重要文化財)

  

 cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高幡不動尊金剛寺山門の彫刻~東京都日野市高幡

2015-04-10 19:00:52 | 神社・仏閣・教会

2014年11月7日 東京都

高幡不動尊金剛寺山門の彫刻

東京都日野市高幡













 

関連記事:高幡不動尊金剛寺

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高幡不動尊金剛寺(重要文化財)~東京都日野市高幡

2015-04-09 20:31:11 | 神社・仏閣・教会

2014年11月7日 東京都

高幡不動尊金剛寺 重要文化財

東京都日野市高幡

真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。
 高幡不動尊金剛寺ホームページより

▼ 仁王門 重要文化財

仁王門は当初楼門として計画されましたが、途中で計画変更され上層の主要部を覆うような形で屋根がかけられ近年まで外観は単層でした。昭和34年解体復原修理の際楼門として復原され屋根も銅板葺きに変えられました。仁王尊は室町時代の作、楼上の扁額「高幡山」は江戸時代初期の運敞僧正「号泊如」の筆  高幡不動尊金剛寺ホームページより

 

▲ 五重塔

満5年の歳月をかけて竣工した五重塔は、塔高39.8m、総高45m、和様、三手先出組、青銅瓦葺、平安初期の様式を模した美しい塔です。 高幡不動尊金剛寺ホームページより

▼ 不動堂 重要文化財

康永元年(1342年)山中より移建。 不動堂は清和天皇に勅願によって、慈覚大師(円仁)が東関鎮護の霊場として山中に建立しましたが、建武2年(1335年)8月4日」夜の暴風雨により倒壊したため、当山中興第1世儀海上人が現在のところに移建した堂で東京都最古の文化財建造物です。

▲ 奥殿 ▼

▼  上杉憲顕の墳

上杉憲顕は氏憲の子、享徳4年正月(1455年)足利成氏の軍と立川河原に会戦、深手を負い高幡寺に入り自刃した。自然石はその墓標で、俗間信仰に茶湯石(服石)と言い、百か日忌払い供養の伝承がある。(鎌倉大草紙) 高幡不動尊金剛寺ホームページより

▼ 山門 









 
 
高幡不動尊金剛寺山門の彫刻
 
 
 
▼ 金剛寺旧五部権現社殿


 

 
金剛寺の境内鎮守として創立されたもので、寺伝によると、源頼義が奥州反乱鎮圧に際し、ここに八幡社を勧請し、のちに稲荷、丹生、高野、清瀧権現を合祀して五部権現と称するようになったと伝えられます。この五部権現社は、現存する棟札により、暦応三年(一三四〇)に創建され、寛文一一年(一六七一)に再建された江戸時代前期の社殿として類例の少ない貴重な文化財です。建物の構造は、一間社流造、銅板葺、向拝付きで、大きさは桁行一・五二m、梁間一・三〇mあります。木部全体に朱の漆が塗られ、彫り物の刻線には墨、さらには向拝蟇股には群青などの鮮やかな彩色が施されています。社殿に安置されていた五基の神牌には、暦応三年(一三四〇)二月二八日造の銘があり、本地仏の垂迹神の名を刻し、国の重要美術品に認定されています。なお、五部権現社殿は奥殿建設工事に伴い、平成八年大日堂前に移築されました。 平成二三年三月 建立 東京都教育委員会掲示より

▼  大日堂

大日堂は高幡山の総本堂です。 江戸時代安永八年の大火で焼失し、長く仮本堂のままでしたが昭和五十七年から五年の歳月をかけて根本改修工事が行われました。 新堂は鎌倉時代様式で入母屋造り、本瓦葺・内陣総漆仕上で材は尾州檜が使われています。又大玄関は桃山時代様式です。有名な鳴り龍天井や優れた彫刻群、幽玄な内陣荘厳等の鑑賞ができます。 高幡不動尊金剛寺ホームページより

 

▲ 大日堂 大玄関

 

▲ 文永(1271年)の板碑

▲ 土方歳三の像 ここは日野だから・・・

高幡不動駅

関連記事:高幡不動尊金剛寺山門の彫刻~東京都日野市高幡

☆cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

根津神社(重要文化財)~東京都文京区根津

2015-04-08 08:27:42 | 神社・仏閣・教会

2014年10月14日 東京都

根津神社 重要文化財

東京都文京区根津

根津神社は今から千九百年余の昔、日本武尊が千駄木の地に創祀したと伝えられる古社で、文明年間には太田道灌が社殿を奉建している。 江戸時代五代将軍徳川綱吉は世継が定まった際に現在の社殿を奉建、千駄木の旧社地より御遷座した。明治維新には、明治天皇御東幸にあたり勅使を遣わされ、国家安泰の御祈願を修められる等、古来御神威高い名社である。 根津神社ホームページより

 ▼ 楼門 重要文化財

 

▲ 透塀 重要文化財

▼ 唐門 重要文化財

神社の正門。両妻に唐破風を備え、天井には今は剥損したが、藤原立信の墨江の龍が画かれてあった

 

▲唐門からの楼門

▲唐門からの社殿

 ▼ 西門 重要文化財

▼ 社殿 重要文化財

 ▼ 灯籠 重要文化財

 

▼ 新坂 (権現坂・S坂) 

新坂 (権現坂・S坂)  文京区根津一丁目21と28の間
 本郷通りから, 根津谷への便を考えてつくられた新しい坂のため, 新坂と呼んだ。 また, 根津権現(根津神社の旧称)の表門に下る坂なので権現坂ともいわれる。森鴎外の小説『青年』(明治42年作)に.「純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。 ……右は高等学校(注・旧制第一高等学校)の外囲, 左は出来たばかりの会堂(注・教会堂 今もある)で, …… 坂の上に出た。 地図では知れないが, 割合に幅の広い此坂はSの字をぞんざいに書いたように屈曲してついている。 ……」とある。旧制第一高等学校の生徒たちが, この小説『青年』を読み, 好んでS坂と呼んだ。したがってS坂の名は近くの観潮楼に住んだ森鴎外の命名である。根津神社現社殿の造営は宝永3年(1706)である。 五代将軍徳川綱吉が, 綱豊(六代将軍家宣)を世継ぎとしたとき, その産土神として, 団子坂北の元根津から, 遷座したものである。 文京区教育委員会 平成14年3月 現地説明版

 

参道にて

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旧寛永寺五重塔(重要文化財)~上野公園

2015-04-07 19:14:56 | 五重塔・三重塔など

2014年10月14日 東京都

 旧寛永寺五重塔 重要文化財

上野動物園内

寛永8年(1631)、土井利勝が寄進した塔は、寛永16年(1639)に焼失しました。現在の塔は、焼失後に寄進されたものです。

 

 

 

cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大仏パゴダと上野大仏~東京都台東区上野公園

2015-04-06 20:27:14 | その他

2014年10月14日 東京都

大仏パゴダと上野大仏

東京都台東区上野公園

寛永八年(1631)に初建された上野の大仏様は度々罹災(りさい)しましたが、その都度復興されています。しかし関東大震災によりお首が落ち、第二次大戦時には軍の供出令(きょうしゅつれい)により胴体を徴用されて、お顔のみが残されました。   大仏殿の跡地にはパゴダ(仏塔)が建立され、本尊として旧薬師堂本尊の薬師三尊像が祀られています。 寛永寺ホームページより

 

☆cosmophantom

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする