雀の手箱

折々の記録と墨彩画

興国寺参詣

2012年12月05日 | 雀の足跡

 遠州七窯の一つで、やきものの里として知られる上野(あがの)に在る興国寺に参詣しました。

 久しぶりに訪問した弟のところで、話が弾んで、南北朝の歴史や、足利尊氏と九州との関わりに興味のある夫が、確か上野には、尊氏ゆかりの寺があったはずと言い出して、それではと、弟が運転する車で出かけました。直方までバイパスができているので,30分足らずです。寺号も何もわからないままでしたが、上野で聞けばわかるだろうと出かけました。

 英彦山や田川美術館、仲愛トンネル越えで大分方面に向かう時にはいつも通過しているのですが、もう数十年上野には立ち寄っていないのに気づきました。

 数多い窯元から煙の上っている処もなく、平日のせいもあって、ひっそりと人通りも殆どありません。

 「ふれあい市」と書かれた道の駅らしき看板を見て、展示の花に水やりをしていた女性に、尊氏ゆかりの寺と尋ねると、「ああ、興国寺ですね。ここから3分くらいですが、分りにくい所ですから案内します。私に着いてきてください。」と先導してくださいました。

 福地山麓の、山深くにひっそりと、だが堂々とした佇まいでその伽藍は建っていました。

 市教育委員会の案内板で概要は盡されています。(興味がおありの方は拡大でどうぞ)開扉の時、案内状をくださるとのことでした。足利直義や尊氏の寄進状。大友氏や、大内氏の書状、細川幽斎の和歌など、文書関係の資料も失われたとはいえ多数現存しているようです。

 本堂の前の静心池は、かつては戦に備えての内堀の役割を果たしたもののようでした。

 敗走で九州に逃れた尊氏が潜んでいたという洞穴?という伝承の場所をちょっと探してみたのですが見つからず、散りつくした銀杏の落ち葉が、冷たい風に吹かれて舞うのみでした。

 ご住職は他出しておられ、詳細を伺えず、仏殿(享保4年完成)の観音堂は閉じられていて、拝見できませんでした。春の桜のころにまた訪れてみるつもりです。

豊前 上野 興国寺

 


大英博物館 古代エジプト展

2012年11月20日 | 雀の足跡

 小春日和に誘われて、福岡市美術館で開催中の古代エジプト展に行ってきました。
 平日にもかかわらず並ぶほどではないもののかなりの入場者でした。

 チラシに語りつくされている内容は、紀元前1500年などという途方もない時空を飛び越えて鮮やかに蘇ってそこにありました。
 三十数年前、エジプトはカイロの博物館で見た多数のミイラや、黄金のマスクなど、明るい部屋で無造作と言っていいほどの雑然の中で見学したのとはちがい、照明を落とした整然とした展示と解説で2時間、異空間をただよっていました。

 門外漢ですので、展示場内に置かれていたNHKのジュニアのためのガイドがちょうどよく、古代文字ヒエログリフの解説や、五十音図との対応図、オシリス神をはじめとする神々の名前とその役割など興味を持ってながめました。詳しくお知りになりたい方は、わかりやすい解説と画像をこの特別展のための展覧会公式ホームページでごらんください。

 入場券やチラシの画像はアヌビス神に支えられた死者の棺に「口開けの儀式」をしている場面です。死後の世界に関して人間が思いつくことは、似通っていて、始皇帝の想いや、仏教の経文や、しきたりなど共通するものがあると感じいりました。

 

 

 

               美術館から秋色の装いの大濠公園への出入り口


唐津くんち

2012年11月03日 | 雀の足跡

  

 爽やかに晴れ渡った秋空に誘われ、思い立って久しぶりに唐津くんちに出かけました。

 漆の一閑張りの曳山が、威勢よく城下町を「エンヤ、エンヤ」の掛け声と、優雅な篠笛を中心にした囃子に乗って駆け抜けていきます。2日の宵山から4日まで開催の唐津神社秋季例大祭の行事です。九州でも長崎くんちと並んで有名な祭りで、曳山の行事は国の重要無形民俗文化財に認定されています。

 車で便利になった高速道で2時間足らずですから、何度か出かけていますが、年代を経た祭りは華やぎの中にも重みがあります。

 曳山展示館の中で見るのと違って、14台の山はそれぞれ、今日は秋晴れの下、生き生きと晴れやかでした。年々盛んになっていく様で、見物の人出も50万とか。今では曳き子も数が増え、衣装も華やかになっていました。今回は混雑するなか、事故があってはと人込みを避けて西の浜の引き込みのハイライトはパスして、中継で見ました。

 唐津観光協会のサイトから、囃子の音色や、動画をお楽しみください。

 

 


気晴らしの旅

2012年10月19日 | 雀の足跡

 気まぐれに「伊勢海老丸ごと1本」に惹かれて、夫が申し込んだ、バスツアーに参加。遥々、長崎まで日帰りで出かけてきました。

 早朝の高速バスのバス停は方々に向かうツアーバスで賑わっていました。鳥栖で長崎自動車道に入り、最初が金立のサービスエリアで、隣接する公園のコスモスをゆっくり鑑賞し、一路高速道を長崎まで走りました。目当ての伊勢海老は長崎の丘の上の旅館「弥太郎」で供されました。約束通りの250g以上のエビはしっかり食べごたえがありました。舟盛りの鯛には箸が出ない人もいて、余っていました。私はグラタンも茶碗蒸しも、鍋物の長崎ちゃんぽんも。デザートのムースまで完食しました。

 帰途は、有田の酒蔵での試飲と、伊万里の果樹園で、新高梨の食べ放題がついていました。さすがに三きれだけ口にして、あとは皿に山と盛られた梨を眺めていました。

 夜八時半、出発したバス停に到着、タクシーで帰宅しましたが、いささか疲れました。

バスツアー


休息のための小旅行

2012年09月24日 | 雀の足跡

 少し間が空いていた帰省で娘がやってきて、例のごとくてきぱきと掃除や片付けを捌いてくれました。といっても捨てる作業が中心ですが。

 台風の騒動や、奈良からの妹夫婦を迎えての兄弟の会合など慌ただしい日が過ぎたので、遅い夏休みということにして、予報では久しぶりに、晴天が続くというので急な思い立ちで、お隣の山口県は湯本温泉へ行ってきました。

 海が好きと言っていた娘も今は、近くで山間の静かな所というので、私が選択して、大谷山荘を予約しました。和風の老舗旅館です。

 都市高速と中国自動車道を乗り継いで行けば1時間半で到着です。途中道の駅「おふく」で軽くおそばをいただいて、チェックインまでの時間を、道の駅から20分ほどの距離にある長門市三隅町の香月泰男美術館に立ち寄りです。「愛情展」と題した企画展の開催中で、シベリアシリーズのイメージとは全く別の世界は、明るく、ほのぼのとした家族の絆をやさしいまなざしで描いていました。戦地ハイラルから送られた絵入りの軍事郵便の暖かな思いと同一の世界です。

 

 

 ここでゆっくり一時間余り、彼女の好きな香月ワールドを楽しんで、駐車場に戻ると、なんとバッテリー上がりで、車が始動しません。どうやら夏バテからの劣化のようでした。JAFのお世話になって、やっと予約の時間きっちりの到着と相成りました。

  湯本温泉を代表する大谷山荘は、さすがに堂々としたゆとりの設計と配慮が行き届いていて、全員女性は和服着用で、にこやかな応対です。いつもとは違ってハイクラスの宿で、入浴にたっぷりの時間をかけ、くつろぎの時間を満足しました。

 夜のロビーでの演奏は女性ボーカルが、外国人特有の豊かな声量と澄んだ歌声で、曲目の懐かしさもあって感動ものでした。

 

大谷山荘にて

 

 スクリーン右下の四角のマークを押すと大きくなる画像もあります。パンフレットからの借用は大きくなりません。


ブラジルからの便り

2012年08月04日 | 雀の足跡
 


 ブラジル滞在中に、休暇で訪れたことのあるブ北東部アマゾン川河口の町、ベレンと、リゾート地レシフェでの写真です。
 九州の大雨の映像がテレビで放映されたそうで、そのお見舞いを兼ねて、懐かしいでしょうと138枚が添付されて送られてきました。南の国は今は冬です。それらの中からUPしました。もう記憶も曖昧ですが、見覚えのある風景が集められていました。

 ベレンはパラー州の州都です。「マンゴータウン」と呼ばれるように、街は並木をはじめ多くのマンゴーの木が見られました。アマゾンの、悠久の未知の大自然へ挑む人々が神の加護を祈った教会や、ヨーロッパ様式の古い歴史を感じさせる建築物などが残っています。日系人も3000人くらい住んでいて、日系病院もありました。リオやサンパウロから長距離バスもでているようでした。北部のマナウスと並んでアマゾン地域の重要な都市です。民芸品も多く、厚地の白の麻布に白で刺繍を施したベットカバーなどを買ってきました。

 レシフエはブラジルの北東部、大西洋に張り出したところの古い港町です。
 ペルナンブコ州の州都で、人口約350万人と聞いていました。北がパライーバ州、南はバイーア州に接し、港の広場でカボエイラと呼ばれる格闘技のようなダンスが盛んに行なわれていたのを憶えています。
 私たちが滞在した頃よりずっと街も立派になって、整備されているようです。地元のサッカークラブ、スポルチ・レシフェがブラジルリーグで優勝した年で町中が沸き返っていました。


 


写真の中から南国の珍しい生き物を拾い出しておまけにUPします。


誘われて

2012年06月23日 | 雀の足跡
 誘われて今日は日帰りの嬉野温泉行きでした。台風5号の余波で大雨の予報でしたが夜が明けてみるとなんと青空まで覗いて雨の気配は全くなしです。
 友人は、帰りには裕徳稲荷に行ったことがないから寄っていきたいというので、温泉だけならと言っていたわが連れ合いは敬遠して留守番を買ってでました

 もう手遅れもいいところですが日本三大美肌の湯というのがうたい文句の嬉野の湯はとろりとしてなかなかのもので、一時は和楽園を定宿にしていました。自宅を出発して、高速道に乗れば寄り道さえしなければ、鳥栖から長崎道経由で2時間ぐらいで到着します。
 本日の湯宿は、和多屋別荘でした。嬉野で一番大きな宿です。昼食もかなりな量と名物の温泉湯豆腐はじめ多彩な和食でお風呂も堪能できたのですが、やはり温泉は宿泊して何度か湯に浸かり楽しむものだと思いました。

 祐徳稲荷は、伏見、豊川と並ぶ有名なお稲荷様ですが平日とあって人も少なく、人出がTVで映し出されるお正月の喧噪とは無縁でした。年間300万人の参詣があるのだそうです。
(ご祭神や境内の詳細他はリンクからご覧ください)

 楼門前の太鼓橋は化粧直しの塗り替え中でした。私の足では150段余りの急な階段はもう無理なので、下の拝殿で参拝して日本庭園の、花菖蒲や紫陽花をめでて、本殿まで上った友人を待っていました。10代の幼い日、父に連れられて参拝したこの境内で、奉納される面浮立(メンブリュウ)の異様で勇壮な舞を初めて見た日を思い出していました。
 梅雨の晴れ間に恵まれて、人の運転する車の気楽さで、脇見の発見は、佐賀平野のあちこちにはまだ藁葺の屋根が瓦葺に混じって点在していることでした。上着も脱いでの快適なドライブでした。



宮地嶽神社の江戸花菖蒲

2012年06月09日 | 雀の足跡
 昨日は久しぶりの宮地嶽神社参拝でした。。社殿の奥庭には古民家苑があり、谷いっぱいに江戸花菖蒲が栽培されています。なんでも百種10万株も植えられているのだそうです。
 そろそろ見ごろと思って出かけました。折から花菖蒲祭りが開催されていて、梅雨入りが宣言された小雨も降る平日ですが、いつもと違いかなりな人出でした。参道の階段にも鉢植えが置かれ、拝殿前の玉砂利のところにも一面に菖蒲が配置してあり今が盛りの時でした。

 今回はルートを古代の官道にとって、宗像大社の手前から山間の細い道を辿りました。万葉集で坂上郎女が名児山の歌を残している大坂越えです。
 奴山古墳群の間を縫って走ると、多数の古墳が次々に迫ります。小さな円墳や前方後円のやや大きな古墳は、今も古代豪族、宗像一族のロマンを秘めて古代の眠りの中です。こちらは6年ぶりのコースでした。

 宮地嶽神社の奥ノ院には、6世紀末のものとされる横穴古墳があり、全長23mの石室は、5メートル級の巨石で組まれています。
 江戸期に山崩れで開口した古墳からは、馬具、刀装具など300点余が発見され、内17点は国宝指定されています。(その一部は九州国立博物館で常設展示されています)特に龍虎紋の透かし彫り宝冠、中国六朝時代の壷鐙などの馬具は見事なものです。
 ここ宮地嶽は、やはり九州古代王朝の聖域でしょう。一説にこの古墳は胸形君・徳善(高市皇子の母、尼子娘の父)のものではないかといわれています。

 花菖蒲は八つ橋とともに琳派の画題としてしばしば登場する花で、連想は自然に伊勢物語の昔男の「から衣きつつなれにし妻しあれがはるばるきぬる旅をしぞ思ふ」の歌へと通います。じっと見つめていると、「井筒」の装束をつけた女が立ち現われてきそうです。
 たおやかな花に対してまっすぐに伸びた葉先は「尚武」と呼ぶ言葉へも通い、アジサイ以上にこの季節を代表する日本の花だと思いました。


補注 奴山古墳群に関してはこちらのブログに多くの写真とともに詳しく記されてい ます。

  高市皇子に関して 
 謎の多い皇子です。天武天皇の第一皇子で、壬申の乱では勝利への立役者でした。不破では軍事の全権を執行。
 母の出自から、天皇として即位することなく、持統天皇即位の折は太政大臣となり、皇族最高位についています。
 正妃は天智天皇皇女(御名部皇女、長屋王はこの二人の間の御子)
 異母姉十市皇女の急死の折の情熱的な挽歌が万葉集にのこされています。高市皇子の死に際して柿本人麿は挽歌で「わ           が大王」と呼びかけています。死後に「後皇子尊」ノチノミコノミコトと尊称が贈られています。
  (古代九州王朝説をとる方たちは天皇として扱っています。)








選択に迷って

2012年05月17日 | 雀の足跡



 8日、そろそろ帰ろうかと言い出したのを宥め、やっと真面に歩けるようになったから、せめてもう一ケ所美術館巡りをして帰りたいからといって、あるじを孫娘に任せて、私は一人で出かけることにしました。

 私の好みを知っていて、娘が集めてくれていた美術館のチラシの中からさんざんに迷って、「KATAGAMI展」を選びました。二重橋そばの三菱1号館美術館が会場です。

 本当は、東博で開催中の、ボストン美術館から里帰りしている海を渡った国宝に会いたかったのですが、待ち時間を思うと足が可哀そうなので、諦めて曽我蕭白の雲竜図も図録で見ることにしました。











 初めて行く美術館でしたが千代田線の二重橋前駅から歩いて3分ほどでした。
 400点を超える展示品はよく整理されて纏められ、会場もそれほど混んではいませんでした。日本の型紙のなかでも伊勢型紙を中心に、このような精密な作業が人の手で可能なものかと思う仕事です。単なるエキゾチックな図柄というだけでなく、ヨーロッパの人々を魅了したのがよくわかります。

 5章構成で、1章は型紙とそれが使われた日本の着物など  2章は英語圏   3章はフランス語圏   4章はドイツ語圏での型紙の受容された作品  5章は現代のプロダクトへの応用 です。
 アールヌーボー様式への影響はもちろん、諸国への浸透も系統だった展示で、理解しやすく、途中椅子で休憩しながらの2時間余でした。1号館から見下ろす中庭は、丸の内で働く人たちのお昼休みの憩いのひと時を過ごす場所でもあるようでした。




 ゆっくり昼食の休みを取って元気を回復したので、帰りの千代田線で、気が変わって、表参道で途中下車して、欲張って車で山種美術館を覗いてきました。こちらでは季節遅れではありますが桜を描く高名な画家たち(大観、玉堂、魁夷、渓泉、土牛、又造などなど)の特集60点ほどで、速水御舟の夜桜の一点が気に入りました。




詳細はリンクからお入りください。

旅日記

2012年05月16日 | 雀の足跡
 6日、挙式の翌日は午前中はゆっくりしていました。天気もいいので本屋廻りをするという主人と新宿で昼食をとって別行動です。私は予定はあったのですが、前日、草履で一日を過ごしたのがたたりました。日ごろは足底板と膝サポーターで保護しているのに、両方を取り外していたのが無理だったようで、長く歩くのは困難でした。夕食の買い物をデパートの地下街で済まして早々に帰宅しました。
 気になっていたと見え早目に帰ってきた主人とくつろいでいると、雷とともに窓を打つ大きな音で、何事かと覗くと、雨に混じって雹が叩きつけてベランダの隅に固まっていました。北関東の方では竜巻が発生して大きな被害も発生していました。ゴールデンウイークの締めくくりは異常気象となりました。

 7日は月曜日なのでどこも美術館は休館日です。天気がいいからどこか一緒に出掛けないかと娘がやってきました。話題のスカイツリーと場所中の国技館に行ってみたいという主人に同行することにしました。娘が上野に来たときには立ち寄るという気に入りの中華料理の店があるからというのに誘われて、出かけました。「過門香」は銀座の本店より落ち着いた雰囲気でした。夜は軽くていいようにと遅い昼食をたっぷり楽しみました。
 上野から浅草まではかわいらしい小型の観光100円バスの「めぐりん」に乗車して、車内の観光案内を聞きながらのんびり車中からツリーの威容を眺めていました。(どこまで乗ってもコース内は100円です。ただし一方進行で、途中乗り換えができるようです)次回があるなら谷中墓地や鴎外旧居も回ってみたいものです。

 下車した浅草はツリー見物の人で賑わっていました。水上バスの待合所展望台に上がって全容を眺めましたが、634メートルを実感するのは難しいようです。隅田川を下る船「卑弥呼」と、スカイツリーの取り合せが絶妙です。川面から見上げるとどうみえるのでしょう。

 両国の国技館は横綱の土俵入りも済んでいて、中入り後というのにガランとして、2階の椅子席は人もまばらでした。弓取りまでいて打ち出しの太鼓の囃子を背に引き揚げました。本場所の国技館は初めてでしたが、やはり九州場所とは風格が違いました。