小倉城の内堀の傍に建つ市立の記念館です。暑い最中の所用で小倉まで出かける夫を車で送って、2時間後の待ち合わせ場所に約束して、久しぶりにゆっくり記念館を回りました。
夏休み中とあって、思いがけず大学生の姿を多数見かけました。21年度は生誕百年で、企画も色々と工夫されてきたようでした。来館者の署名の中にも奈良や、広島の住所が記されていました。
清張は小倉で生まれ(1909年)、不遇の前半生を朝日新聞西部本社広告部に勤務していました。その間に書かれた「西郷札」が週刊朝日の懸賞の3等に入選、「ある『小倉日記』伝」で、第28回芥川賞(昭和27年度下期)を受賞しました。作家としての出発は異例の42歳のスタートです。
私の清張作品との出会いは、ガリ版刷りの西郷札でした。その後、「点と線」「黒地の絵」など北九州を舞台に展開する作品群を読み漁ったものです。
40余年の作家生活で遺された作品数は長、短編合わせて1000点に及ぶようですが、「神々の乱心」の完結を見ず82歳で世を去るまで現役でした。その作家活動の原点はここ北九州にありました。
清張を考える時、フィクション、ノンフィクション、評伝、古代史、現代史と、多彩な幅広い分野で、批判や異論はあるにせよ、人間の持つ普遍的なテーマを常に時代という鏡に映し出し、独特な切り口で捉えていく凄まじいばかりの作家魂に圧倒されます。「昭和史発掘」はいまだ読み終えていません。
再現されている書斎や応接室、3万冊に及ぶ蔵書と書庫、コレクションの古鏡などに混じって、自筆の原稿の達筆なこと。年賀状に描かれた絵や、旅の途上での風物のスケッチの上手さは、版下や、広告で培われた素養以上に詩情豊かなものでした。
小倉中学への通学の途上、「ある小倉日記伝」のモデルになった親子をよく見かけたと語る夫、すぐ近くの鐘崎の港、ジョウノキャンプ。和布刈。どれも身近な存在が作品の舞台です。
第一、記念館のある場所からして、女学生のころ学徒動員で、城野の寮から下駄履きで通勤して、12時間勤務の夜勤をし、機銃掃射に追われもした小倉造兵敞の跡地です。
地上2階、地価1階のしゃれた建物の廊下に並ぶ小窓は、鉄砲狭間か、銃眼をデザインしたと思われ、その隙間から小倉城の石垣を眺めつつ、”昭和は遠くなりにけり”と、先ほど見た「日本の黒い霧」を感慨深く反芻したことです。