雀の手箱

折々の記録と墨彩画

寄り道

2011年06月27日 | 雀の足跡
 一ノ俣からの帰りは、雨の予報がはずれて、真夏を思わせる快晴になりました。
 いつもは真っ直ぐ山陰に出て、角島か仙崎に寄り道して帰るのですが、何度も通るコースなので、ロビーで出会った支配人に、どこかお勧めの場所はとお尋ねしたら、万倉の大岩郷と、南原寺を挙げられました。「どちらも観光客はまず行かないところで道も狭いのですが、土地では有名な場所です。」といわれるので、らでは其処にと決定です。
 画像と興味がおありでしたらリンクでお楽しみください。

南原寺
 細い山道は車1台がやっとで、もしも対向車が来たら、ところどころにある退避場所までどちらかが引き返さねばならない曲がりくねった山道を、間違ってないかと不安をもって登っていきました。海抜370mの地点にある寺が、南原寺。です。(公式サイト「花の山寺」)
 土地の人たちは、厄除けの寺として信仰し、近年はボケ封じの寺としてお参りの人が多いそうです。
 難波羅寺、難払寺の別称の語呂から、「難を払う」と結んだのでしょう。
 準備なしの突然の訪問だったので、境内の案内板以外には白紙の状態で、帰宅後の検索で由緒深い歴史を知りました。
 かって30余の仏閣を誇ったという修験道の聖地の面影は、参道から本堂までの杖を曳く山道に点在する礎石や階段で、坊跡と偲ばれるのみです。参道のお地蔵様も長い年月に目鼻も定かではないほどに苔むしておわします。
 「花の山寺」と呼ばれるだけあって、、今は山紫陽花の珍しいものが多くみられましたが、石楠花や馬酔木の株があちこちに見られ、花のころはさぞと話し合ったことです。人家も全くない険しい山深いところにひっそりと佇む寺内は霊気が満ちていました。



万倉の大岩郷
 ここもひっそりとした山間に突如出現する岩の海です。昭和10年に国の天然記念物に指定されています。標高320mから380m。平均傾斜16度の積み重なる石英閃緑岩の岩原です。いまだにどのように形成されたのか解明されていません。
 駐車場とトイレだけあります。弟だけは元気に岩の間の道のぼっていきました。
上の方で、Y字に左右にも岩の拡がりがあり、下の方の岩はまだ風化が進んでいなくて尖っているといっていました。
 膝を折って低い姿勢になるのが困難なので平板な写真になります。こちらの公式サイトでその壮観をご覧ください。

 
 宇部近くまできたからと、小月の東行庵に寄り道して、咲き残る花菖蒲の終わりを見届けることにしました。雨のあがったこの日はかなりの人出でした。
 小月から高速道に乗り一路北九州へ向いました。

蛍への旅

2011年06月25日 | 雀の足跡
今年もまた蛍に遭うことができました。
 日ごろ何かと心遣いしてくれる義妹が激しい腹痛で緊急入院しました。胆管に生じた胆石のいたずらと判明しましたが、種々の検査や処置でかなりの日数の入院になりました。
 快復のお祝いを兼ねて、お見舞いのお返しに、温泉旅行をプレゼントするからと、私に選択が任されました。
 このところの警報の出る長雨や、体調が思わしくない夫のことなども勘案して、蛍の季節でもあるので、すぐお隣の関門の奥座敷、一ノ俣温泉を選択しました。
 幸い前日までの大雨もあがり、曇り空ながら、雨傘の世話にもならず1泊の小旅行を楽しみました。
 時間がたっぷりあるので、関門トンネルを抜け、壇ノ浦経由で長府庭園に寄り道してゆくことにしました。期待していた花菖蒲は今年は植え替えでみすぼらしく、紫陽花が盛りの時を謳歌していました。孫文ゆかりの池でコウホネが黄色い花をつけてひっそりと夏を告げていました。
 弟の案内で昼食は 長府の老舗料亭古串屋の別館、十樂でということになり、老舗の和の味わいをモダンな部屋で楽しみました。
 途中時間つぶしに自然農園の施設「みのりの丘」にも寄り道し、3時にチェックインでした。
 昭和40年ごろに幼かった子供たちと一度訪れたことがあるという弟達は余り気乗りがしなかったようでしたが、当時の鄙びた山の宿のイメージとはすっかり様変わりしていたようです。
 とろりとした定評のある温泉にゆっくり浸かり、何が出るかわからない、「料理長におまかせ」のコースを6時に私達の部屋でと指定しました。
 今日のメインは、尺二寸の大鉢にこれで二人分と驚くほどに盛付けられた大量のふぐ刺しでした。多すぎるといいながら、時間を掛けて全部食べてしまいました。河豚好きの夫は大満足でした。
 蛍ホタルと騒ぐ私に「蛍ぐらい家の上のほうの川にも出ているよ」といっていた弟でしたが、8時過ぎにホテルが出すバスに乗って、川を遡り、群集するスポットでバスを止め灯りを消して、群舞するホタルの明滅をみた時には驚きの声を発していました。
 黒々と闇に包まれた山を背景に、川を挟んで3秒おきくらいに一斉に点滅を繰り返し、舞い上がり、斜めに光の尾を引き、あるいは高く、低く交差する光のシンフォニーに、みな声もなく見入っていました。
 川の畔に、低く明かりを灯す小さな姫ホタルや、平家ホタルとは異なり、ここのホタルは飼育されたものではなく、大きな天然記念物に指定されている源氏ボタルですから、迫力が違います。
 弟によると、ホタルは常時出ているわけではなくて、9時前後に一斉に明滅し、そのあとしばらくは休み、また12時過ぎあたりに出るのだそうです。頃合いを見計らったバスの運行だったわけです。存分に光のショーを堪能した40分でした。



たまきはる

2011年06月18日 | 塵界茫々
 「光のおばちゃん」と愛称で呼んでいたいとこが突然に逝きました。
 「みまき会」の従兄弟達のなかでは最高齢の、94歳という齢に不足はないとはいえ、唐突すぎました。
 なんとなく気分がすぐれないし、食欲がないというので、大阪に離れて暮らす息子が帰省してきて、念のため検査をというので入院し、主治医の先生とも午後9時過ぎまで話をしたあと1時間半くらいで容態が急変したようです。
 
 息子が一人暮らしを案じて電話しても、大抵は帰らなくていいと断るのに、いつになく黙っているからと、不安になって帰ってきたようでした。
 考えてみると、おばちゃんに相応しい “大往生”だったと思います。願わくは、自分もこうあらまほしとさえ思います。
 1週間ほど前、そら豆が採れたからと弟のところに宅急便で届けられたのを、お福分けでもらったばかりでした。病院通いの切れ間のない私達よりきっと長生きするだろうと言い合っていたことでした。
 昨年の「みまき会」には、弟の迎えの車に乗って、はるばる光(山口県の広島寄り)から参加して、日田・天ヶ瀬を巡る1泊の旅をみんなと楽しんだのがお別れとなりました。
 おばちゃんは、両親との縁が薄く、私の母が五人兄弟の末子で、片や夭逝した長兄の長女だったので、一緒に育って、母とは姉妹のような間柄でした。わたしたちも自然「おばちゃん」と呼んでいました。
 望まれて大きな乾物問屋へ嫁いだのですが、平穏な幸せの日々は短く、戦争未亡人となりました。何度か再婚を勧める話があったのを記憶していますが、一切耳をかさず、強制疎開を期に、幼い息子を抱え、姑と三人で夫の郷里に戻り女手で店を切り盛りしていました。
 手先が器用で、わが家にも木目込みの立ち雛が形見となって遺されています。株式をはじめ、経済の話も的を外さず、80を過ぎてなお自分に都合よく古い家も大改造し、気ままな一人暮らしを楽しんでいると思っていました。
 現在NHKの朝の連続ドラマで放映中の「おひさま」に登場する誰彼に、おばちゃんの生き方を重ねて想う毎日での訃報でした。
 このところ夫の体調がすぐれないので、前日から1泊で葬儀に参加するという弟の車に便乗して一緒に出かけるわけにもいかず、遥かに冥福を祈るばかりです。





このごろ

2011年06月14日 | 日々好日
 長雨の天気予報と、熟れ具合をみて収穫していた梅は6キロ余り。こればかりは先送りできない待ったなしの始末をせねばならず、手が痛むのを宥めながらの梅仕事でした。
 予報どおりの激しい降りは、雨漏りのおまけまで付いて、あたふたと過ごしていました。
 久しぶりに「手箱」を開けてみました。

 今日は例会の日でした。気合の入らない間に合わせの提出です。
 今回も潰しで空間処理をするという自分なりの課題で何とか4枚を提出しました。
 会場で、持参の青梅を画きましたので、その中からの1枚です。














友を送る

2011年06月05日 | 塵界茫々
 高等女学校の同窓生がまた一人旅立ちました。

 地元に生まれ育ち、生涯移動することのなかった人です。熱烈な恋物語の語り草だったご主人が3年前に先に逝かれ、ご自分も舌にできた腫瘍を摘出して、発音が不明瞭になるのを嫌がってこの2年は同期の会合にも欠席でした。
 もともとは小柄の体ながら積極的な行動派で、私達の間では一番早くに車の運転免許を取得しておられました。

 同窓会のお世話も地元在住ということもあって、期の幹事を引き受け、長く会報の発行に携わって、煩わしい雑務を誠実にこなしておいででした。
 三人のお子さんも、立派にそれぞれ適切な方向付けで、お孫さんたちに囲まれて目を細める姿を見かけたこともあります。

 告別式には久留米や博多からも参列者があり、ミニ同窓会の様相でした。

 心をこめて、同窓生としてのお別れの言葉を贈り、長い間のお世話に対し「ありがとうございました」と感謝の言葉で締めくくりました。
 これからはこうした同年の友人達との別れが否応なしに重なることでしょう。次第に向う岸のほうに友人が多くなるようです。



 庭に咲いている花のなかから、友への供花のつもりで白い花だけを選びました。
シモツケは盛りを過ぎてしまいましたが、チンシバイはこれからです。


 

本日の模索

2011年06月02日 | すずめの百踊り
 手の不自由が加わって、年齢と共に勢いを失う絵に焦れて、模索を続けています。

 仲間とはありがたいもので、私流に解釈して端的に言えば、「上手く見せようとする嫌味が抜けて一皮剥けた」という意味の慰めを言ってくれますが、思うような線が引けない歯がゆい思いはいかんともしがたいものがあります。
 それではと、開き直って、最近では、現状でしか描けない、以前なら決してやらなかったことをしようと意気込んで、思い切り汚したつもりです。それでも、指導してくださる方に言わせるとまだまだ中途半端で、躊躇いがある。といわれてしまいます。

 書き損じの風景画を使っての作画も“おしゃべりな骨”―仲間の命名です。―に変身しました。