雀の手箱

折々の記録と墨彩画

鑑真和上展

2009年05月27日 | 雀の足跡


 インフルエンザの流行というので、日程を1日短縮して帰宅すると言い出し、3日目は奈良国立博物館で開催中の鑑真和上展を見て、そのまま帰ることにして、近鉄の駅のロッカーに荷物を入れ、奈良博まで送ってもらい妹夫婦に別れを告げました。

 12年に始まった唐招提寺金堂の、10年にわたって続けられていた平成の大修理が完成して、天平の金堂が再びその姿を見せ落慶法要が営まれるのは今年秋。それを記念しての企画展です。

 鑑真和上坐像(わが国最古の肖像彫刻、国宝)はじめ、お堂の仏像の殆ど。屋根の「天平の甍」左右の鴟尾、舎利容器といった国宝が12件、重要文化財36件そして、あの東山魁夷生涯の大作の襖絵までもが展示されています。
 久しぶりに四天王立像、頭部と手の欠けた如来形立像にも逢うことができました。
 歴史で教わったように、鑑真和上は、12年間、6回も日本を目指し、海を渡ろうとし、盲目となってもなお渡海の目的を果たした信念の人です。
 この国で聖武、孝謙天皇はじめ高僧たちに受戒を授け、仏教国家としての形を完成させたその想いが、重く立ち篭めるなかで、仏像群は1200年を超える時を経てなお天平の香りを豊かに放っていました。
 展示は照明にも工夫が見られ、古代への幻想を誘いました。豊富なパネル展示も理解を助けてくれました。

 東山魁夷の襖絵は、画伯が渾身の想いを篭めて描いた迫力で見るものに訴えかけてきます。これらの襖絵を、仲秋の明月のさすなか、あるべき場所で、開かれた仏殿で拝したらどんなに幸せかと切に思いました。
 19日には唐招提寺で”うちわ撒き”が行われたと新聞が報じていました。

 若葉して御目の雫拭はばや  芭蕉

 おおてらの まろきはしらのつきかげを つちにふみつつものをこそおもへ  会津八一

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画像は展覧会チラシよりお借りしました。
上2枚は四天王立像。左から多聞天。広目天。増長天。持国天。いずれも国宝。
襖絵は東山魁夷奉納の御影堂襖絵 「濤声」。マウス・オンでどうぞ。

下の2枚は鴟尾「天平の甍」と海を渡って齎された金亀舎利塔。2件とも国宝。


慈光院

2009年05月25日 | 雀の足跡
 石上神宮の参詣をすまして、まだ帰るには早すぎるから慈光院に回ろうということになり、車を大和郡山へと走らせました。金魚の飼育で全国的に知られた柳沢氏15万石の城下町です。
 慈光院はこの大和郡山市にある臨済宗大徳寺派の寺院です。片桐且元の甥、片桐石見守貞昌(石州)の建立。
 さつき1種類の刈り込みは、ちらほらと赤い花をのぞかせていました。禅寺にしては庭に石組みをほとんど見かけません。かつては大和平野を一望できたのに今はスーパーなどの大型施設で眺望の借景が損なわれているという妹の嘆きでした。それでも、遠景の高円、三笠、春日と連なる山々を書院から見はるかしながらいただく一服のお茶は、さわやかなものでした。三畳茶室、二畳台目茶室なども拝見しました。

慈光院
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書院から見る庭園
丘の上の慈光院入り口一の門
入り口から山門までの霰石敷きの苑路
山門(茨木城楼門)
書院外観
手水鉢
茶室
慈光院案内
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 夕食までに時間があるからと、帰り道、郡山城址を見学。かつては、市役所として使われていたという建築物や堀の石垣の見事さに見とれ、桜のころは賑わうという城址を散策して引揚げました。

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 おまけの画像は堀と石垣。大手門。元市役所。

葵祭の翌日

2009年05月23日 | 雀の足跡
 雨が予想されるので、2日目は葛城方面は止めにして、まだお参りしたことのない石上神社と慈光院に行ってきました。
 午前中は、直ぐ近くの松伯美術館で「幽玄の美を追い求め~松園・松篁の芸術観を育てた能楽~」と題した上村松園母子の企画展を見て行くことにしました。
 やはり、母、松園の迫力には及ばないなどと、勝手な評をしながら、金剛流の能をよくした松園、松篁の愛用の道具や、金剛家所蔵の能装束、面の展示を拝見。午前中は美術館でお茶室や庭園を散策してゆっくりし、唐招提寺に寄り、お蕎麦の軽い昼食をとって、天理の独特の町並みを抜けて、石上神宮を目指しました。

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画像2枚はともに上村松園「鼓の音」と「砧」

 石上神宮は、想像していたよりもこじんまりとしたお社で、人の気のない境内では、樹木に鶏達が優美な尾をたらして長閑なときの声をあげていました。ここは“山辺の道”の途中、北には布留川が流れ、(“いそのかみ“は”ふる“の枕詞)古墳の密集地帯です。七支刀(国宝)や、環頭太刀柄頭などの貴重な出土品を持っていますが拝見はかないません。国宝の拝殿二つ。一つは中央に馬道を持った珍しい割拝殿で、いかにも無造作に石段の上にひっそりと建っていました。
 この神宮は、最古の神社の一つで、武門の棟梁、物部氏の総氏神として古代信仰のなかでも異彩を放っています。


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<石上神宮>


鴨川の床

2009年05月21日 | 雀の足跡
 10時半に出発する京都御所での桟敷を、早くから友人と予約していた妹とは別行動をとることになり、夕刻6時に京都市役所前のバス停で待ち合わせ合流しました。
 予約してくれていた“豆屋源蔵”という料亭に入りました。入り口は高瀬川に面しています。床ユカは、いつも外から眺めるばかりで、初めての体験でした。
 遠景に大文字を眺め、送り火のときを思い描きながら、鴨川の風に吹かれての夕食は至福の贅沢な時間で、昼間の動く絵巻の世界からの夢の続きを見ていました。

 九州の豪快な活き魚料理とは対極の細やかな心配りの手の込んだ京料理に、田舎者らしく驚きながらたっぷり二時間を賞味したことです。






憧れの祭

2009年05月20日 | 雀の足跡



 縁のなかった葵祭を遂に見ることができました。王朝時代、単に祭りといえばこの葵祭を意味し、源氏物語での六条御息所と葵上の車争いの場面は画題や能であまりに有名ですが、兼好法師も繰り返し取り上げています。

 奈良の妹にすすめられるまま、思い腰をあげて薫風の京都を目指しました。今回はあるじのほうが珍しく乗り気で雅の祭を見たいと言い出しました。

 昼過ぎ京都について、上賀茂神社のほうが幾らか人が少ないだろうという妹の情報でしたが、一応駅の観光案内所に立ち寄り、情報を集めて、まっすぐ上賀茂へと向いました。3時半ごろ到着予定というのに境内はすでに大勢の見物客で、2時半から後は、二の鳥居の内には入れないというので、「ならの小川」の畔を清流に沿って歩き、百人一首の”みそぎぞ夏のしるしなりけり“の家隆卿の歌碑を確かめ、今日は近づくことができないお社を遠くから拝し、社家のあたりを散策、まだ十分残っていた桟敷席を購入して腰掛けて到着を待ちました。

 祭りは予想通りの動く王朝絵巻で、一の鳥居の外で騎乗の人も下乗、斎王代も輿から降りて歩くことになるので、目の前を五衣裳唐衣(十二単)の上に小忌衣オミゴロモを付け、垂髪には、金属の心葉飾り、額の両側には“日蔭の糸”を垂らして、静々と通過してゆくのを拝見します。女の童たちの色とりどりの衣装もあいらしく斎王代の裳裾を掲げて進みます。采女、命婦、楽器を奏しながら進む楽人のうち、琴も歩きながら奏されるのは驚きでした。冠にかざすフタバアオイはこの時刻になると強い日差しに萎れています。
 行列の最高位である、勅使の近衛中将が、背筋をすっきり伸ばして、黒の束帯、銀の魚袋をつけ、太刀を佩き、裾を長く引く姿も大宮人のいにしえを髣髴させます。夢の絵巻は1時間半に亘り途切れることなく繰りひろげられました。


葵祭
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藤の花飾りの牛車
御所を出発する斎王代
一の鳥居で下乗した検非違使たち
二の鳥居へと進む風流傘
琴を奏して歩く伶人
斎王代と女童
青海波装束に日蔭糸を垂らした采女
祭りの最高位近衛使、勅使
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1、2枚目の写真は妹の撮影

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祭りの周辺の画像3枚、クリックで。
上賀茂神社「ならの小川」・「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりけり」藤原家隆・神社に奉仕する社家は御神灯を吊るして。


前口上

2009年05月14日 | 雀の足跡
 「もののあはれ」の物語続篇の出発に当たって、さて、題名をなんとしたものか。前の「もものあはれ」はサークルの時間内に、ブログ開設の手順を教わるのに使ったものをそのままに用いたお手軽だったので、自分の今の状態に幾らかでも即したものにと考えて、ハンドルネームも、「ふくら雀」としました。

 老いうらぶれて風に膨らむ平凡な雀です。でかい体をもてあましていて、雀でもなかろうとは思いますが。
 最近では雀の姿も次第に見かけなくなってきているとか。

 時も場所もわきまえずに囀るのは雀の本性。チィチィパッパとおやかましゅうはございましょうが、お時間のある折にはお訪ねください。自分のための旅の記録と、ささやかな楽しみの墨彩画を中心に構成するつもりです。投稿は不定期の気ままなものになりますが、同じく気が向いた折にはお訪ねください。