雀の手箱

折々の記録と墨彩画

見舞に帰省

2013年05月31日 | できごと

 29日に、先月帰省したばかりの娘が孫娘と共に帰ってきました。骨折と聞いて孫娘は2泊3日での見舞いです。きっと元気も出ることでしょう。

 もともと、6月は奈良の妹の娘の結婚式があるので、帰省して留守番で残る夫の世話をしてくれることになっていましたが、怪我で早くなってしまいました。仕事と家庭があるので申し訳ない想いで一杯です。

 孫娘の来訪に備えて、散髪したいというので、洗髪も気になっていて、理髪店に出かけました。髭も剃ってもらい、気分もよさそうです。

  先日来の足の腫れで通った整形外科医に、介護申請をするように言われていました。申請が通ればいろいろと便宜が図られるようで、今度のような場合、私の留守中をショートステイでカバーできたのですが。 4月末に申請、5月8日に査定調査に見えましたが、それから1週間もせずにベッドからの降り際によろけて転倒し、手をついて支えようとしての手首関節の骨折です。再度の転倒を警戒して、地域包括支援センターに、ベッドの柵をレンタルしてくれるところを紹介してほしいと事情を話しました。申請中で、訪問調査がすでに終わっているのなら、ケアマネージャーは決まっていますかということになり、知り合いもない私にすぐ電話で当たってくださいました。翌日、来訪があり打ち合わせ、その日の夕刻には専門業者が持参されました。

 作りは白木をイメージした作りで、枕元と、足側とに分かれていて、どっしりと重くコの字型で安全性の高いものです。照明が当たっていると消灯した後も手すり部分に蛍光発色の線が出て、立居がずいぶん楽になったみたいです。まだ認定は出ていませんが危険が察知されての前倒し利用です。

 日程が短いうえ、怪我人もいることで遠出はできず、近くの”はなわグリル”が30周年の案内をくれていたので、4人でフルコースのディナーに出かけました。久々に手の込んだオードブルに始まり、この店の代表、キノコの形に膨れたパイ皮の包み焼のスープや、鮎のテリーヌ、サーロインステーキといった創作料理を堪能し、飴細工の籠に入った冷菓のデザートまでを完食。工場群の夜景を眺めに回り道をして帰宅しました。

  少しおしゃれをして出かけて、カメラを忘れていましたので、残念ながら写真はありません。


牡丹を遊ぶ

2013年05月26日 | すずめの百踊り

牡丹を遊ぶ

 

 与謝蕪村には牡丹の句がかなりあります。その中から好きなものをいくつかあげます。絵を描くときのイメージの素にしています。

  閻王の口や牡丹を吐かんとす

  ちりて後おもかげにたつぼたんかな

  牡丹切って気のおとろひし夕べかな

  寂として客の絶間の牡丹かな

  牡丹散りて打ちかさなりぬ二三片

  地車のとどろとひびく牡丹かな

 こうした風情を絵で表現するのは、私のレベルでは難しいものです。以前、加山又造をまねて墨だけで描いてみたこともありましたが、まったく様になりませんでした。花の王者らしく豊かに咲き満ちた華麗な牡丹のイメージは、どうしても唐獅子牡丹風の中国趣味に偏りがちになります。何枚かそうした絵が出来上がるうち、存在しない色で遊ぶところまで行ってしまいました。明らかにやりすぎです。

 高浜虚子も牡丹が好きだったようです。

  ほむらとも我心とも牡丹の芽

  白牡丹といふといへども紅ほのか

  牡丹花の面影のこし崩れけり

 

当分は通院以外には外出がないので、慰みに絵で遊んでいますが、やはり、落ち着きがありません。


今朝の一枚

2013年05月22日 | すずめの百踊り

 

 今年からは伐り倒されたので、もう枇杷の実を見ることができません。イメージの枇杷です。

 庭をおぼつかない足どりで歩く夫の後について散歩していると、バイカウツギの強い香がして、目をやると崖のへりで満開でした。杜若の白い花も誇らしげに咲いていました。

    今日も気温は27度、梅の実の今年の収穫は早そうです。


歴史散歩 織幡神社へ

2013年05月16日 | 雀の足跡

 宗像方面に出かけるときに、途中通過で気にかかりながらも、いつでも行けるとお参りしないままになっていた織幡神社(おりはた)です。

 あまりに心地よい初夏の日差しに誘われ、海辺の散歩を提案したあるじに付き合って、宗像市鐘崎、岬の突端にある織幡神社を目指して車を走らせました。美しい海岸線をドライブして遠賀郡との郡境を越すとすぐです。

 ここは宗像大社に次いで、延喜式にも登場する由緒ある式内社(補注1)です。現代の人は松本清張の小説「渡された場面」の事件の舞台として思い浮かべることでしょうが。
 地元では、「しくあんさま」と呼ばれていますが由来はわかりません。

 万葉集にも詠まれた「金の岬」は、今も多数の漁船が係留されています。鐘崎周辺はアワビ、サザエなどの豊かな漁場なのです
 ここ鐘崎の先祖は鐘崎海人と呼ばれ、航海術に秀でていて、その進取の気性から各方面で大活躍したそうです。特に潜水技術に優れた鐘崎海女は西日本の海女の発祥であり、出稼ぎ地であった能登、長門、壱岐、対馬などにはその分村が出来たと言われています。

 沈鐘伝説(補注2)で有名な巨石は、神社の鳥居のそばの参道に置かれていました。

 

補注 1 延喜式神名帖に記載されている神社の呼称

    2 「ちはやぶる神の御崎」には、1400年前に貢物として朝鮮半島から運ばれてきた大きな梵鐘が、 この岬の突端で大波のため沈んだという伝承があり、鐘崎の地名の起こりとされていました。鐘は竜神に守られ、風の強い日には澄んだ音色を響かせたので、この地から東の海を響灘と呼ぶようになったと伝えられています。過去3回、引き揚げが試みられ、失敗。大正時代炭鉱王山本菊次郎氏が巨額の費用を投じて引き揚げたものが巨石だったというわけです。人々は今もどこかに鐘は沈んでいると信じています。

    織幡の由来は『織幡宮縁起』(天和3年)に、神功皇后及び武内宿禰、洞の海より高津山に登られ、神々に祈られ、次いで波津(はつ)の浦で軍(いくさ)の旗を織らしめ給い、その所を名づけて「はたの浦、大旗、小旗という。今のはつの浦とは言いなまりなり。ここに織幡大明神とは号するなり。と記されています。波津はすぐ東の地です。

神功皇后の出兵の折、武内宿禰がこの地で紅白の旗を織らせたという伝承からも、宗像族は漁業や航海術だけでなく、高度な服飾文化を所有していたことがうかがえます。

  13日、月曜日の散策のあと、この記事を書いた翌朝、主人がベッドから起き上がろうとしてよろけ、転倒した折に左手手首を骨折し、痛々しいギブスで肘の上まで固定されました。足の腫れは減ってきていたのですが、当分はまた整形外科通いの毎日となりました。


舞台は初夏へ

2013年05月11日 | 日々好日

 雨上がりの庭では、花々が春から夏へのバトンタッチをして、すっかり衣更えが進んでいました。

躑躅や苧環の花の姿が消えたあと、瓢箪も種まきして2週間余り、葉が3枚になって植え替えの準備をせかしています。タニウツギの鮮やかな紅に誘われて下りた谷では、ホタルブクロが鈴なりの花を咲かせていました。紫陽花にも爪楊枝の頭ほどの粒々の塊が花の気配を示し、柿にも、花芽だった中に青い実が愛らしく覗いています。桔梗やホオズキの成長も驚くほどです。

 このところ、つれあいの病院通いの送迎で、ゆっくり花に向かい合う時間が少なくなっていて、目新しい作品もありません。それでも切りとったホタルブクロに惹かれて2枚だけ描いてみました。もう少し単純化できたら落款を押します。

初夏の訪れ

 

 






藤幻想

2013年05月05日 | すずめの百踊り

 たわわに咲き満ちて揺れる藤波が夢の中にまで追っかけてきそうで、描いてはみたのですが、まだ形になりません。途中ながら模索の足跡としてのUPです。

 好天続きの連休後半ですが、外出することもなく、のろまな庭仕事で一日を過ごしています。

 これは朝の時間の慰みです。ナニワイバラも盛りを過ぎて大方花弁を散らしましたが、形見にとどめました。

 藤のイメージ

 ナニワイバラ