雀の手箱

折々の記録と墨彩画

三月の例会

2010年03月30日 | すずめの百踊り
 今宵は満月です。昨夜も雲ひとつない空に、少し朧の月が懸かっていました。雑然とした荒れた庭の草木に惜しみない光りを注いで、妖艶な風情を漂わせていました。
 櫻の木の下まで出てみようかとも思いましたが、「花は盛りに、月はくま無きをのみみるものかは。」と兼好法師を気取ったのは、風雅よりも夜気の寒さが先立ちました。もう、弥生も明日で過ぎてゆきます。

 今月の例会は、例年のことながら欠席が多くて少し寂しい会となりました。新たな出発や、別れで、多忙な人も多かたようです。
 提出作品中では、下の土筆が好評でした。「手に故障が出て、一つ突き抜けたみたい。」と奇妙な褒められ方でした。特に色が思い切りよく置かれているといわれるのですが、自分では分かりません。
 曰く「上手く描こう。上手にみせよう。が抜け落ちた。」ということのようでした。

 齢80、そろそろ、そうした諸々から脱却できていなければならないのに、雀、百まで。まだ修行が足りません。色気があるということでしょうか。だとしたら、傍からは薄気味悪いでしょうね。
 春は遍路にこだわって描いています。まだ、落ち椿同様、納得できないでいますが。いつの日か「できた!」と言ってみたいものです。







桜、さくら

2010年03月28日 | 日々好日

櫻の樹の下に入って花びらを写したつもりが枝垂桜風になりました

 歯の治療に行くついでに、桜を目当てで、すぐ近くの「日の峯神社」の境内に立ち寄ってみました。隣の公園では花の下で春休みの賑やかな子供たちの声がしていましたが、広い境内には人の気配も無い午後は、こんなにも桜が美しいのは、本当にこの樹の下にまがまがしいものが埋められているのではと思はせるほどでした。
 創建1150年の記念募金、一口3000円が線で消されて、1000円に訂正されているのも、境内の桜が春爛漫の華やかさに咲き満ちていただけに寂しい眺めでした。

    己が色超えて輝き日の桜    稲岡 長

 心地よい陽気に誘われて、隣町の成田山まで車を走らせました。
 出不精になっている二人にとって、歯科医通いは、その序での余福を提供してくれています。
 ほぼ満開といえる櫻の下では親子連れの楽しげなお花見が展開されていました。

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<日の峯神社境内>


 通りすがりに見た金山川沿いの土手の桜も、例年は足元のチューリップと妍を競い合うのですが、今年は桜の満開が早くて、チューリップはまだ蕾のものが多いようでした。

緋連雀

2010年03月27日 | 日々好日
 久しぶりに野鳥の美しい写真の配信がありました。野鳥は気品のある懐かしのヒレンジャクでした。

「今年は冬鳥達の飛来が非常に少なく、淋しい思いをしてましたが、やっと能勢町野間の大欅にヒレンジャクがやって来ました。これで冬鳥達ともお別れです。」とありました。

 緋連雀と当てる表記は江戸時代がかっていて、ぴんと跳ねた頭の冠毛、目を鋭くみせるアイラインは歌舞伎役者の隈取を思わせます。喉に黒い斑点、尾筒の先端の緋色とあって、うっかり者の私でも他の野鳥と見間違えることはありません。
 ある年、庭のクロガネモチの実を食べに驚くほどの数でやってきたことがありました。その後は実は毎年なのに出会うこともありません。再来を待っていたのですが・・・
 
 緋連雀一斉にたってもれなし と詠んだのは阿波野青畝でした。

 ただし、緋連雀は、晩秋の季語です。









つちふる(霾)

2010年03月24日 | 日々好日
 彼岸も終わろうというのにまた寒が戻って、昨日から冷たい雨が降り続いています。
 櫻も開花がすすんで、八分咲きのところが多く、今年の花見をあれこれと思案するこのごろですが、「花に嵐」のたとえどおり、人の都合にはお天気は同調してくれないようです。
 先日の春疾風では、野焼きの人が火に巻かれ、突風に吹き折られた鉄柱が当たって亡くなる不幸もありました。春疾風(はるはやて)、春荒れは、つちふる同様烈風となります。言葉の数が多いというのは、それだけ人々が悩まされてきたからでしょう。

 今朝のNHK俳句の兼題は「つちふる」でした。黄砂が一般的ですが、この“つちふる“という古語を知ったのは、芭蕉の奥の細道、尿前の関での、雲端につちふる心地して、 でしたが、このときは仮名表記で何となく理解していましたが、吉田一穂の詩、「咒」の冒頭で、「霾る逆天の地、掌に占で見析くる地平線。・・・」と、読めない漢字として出てきた時、辞書に当たって、霾は、つちふるの漢字で、バイと読み、霾風、霾天、などで春の季語となると知りました。蒙古風、つちかぜ、霾晦(よなぐもり)よなぼこり、という言い方もあることを知ったのはもっと後のことです。
 ぼやきながら車の窓を拭く春塵(しゅんじん)黄塵はまだゆとりがありますが、霾の文字は、何かおどろな感を抱かせます。遠く大陸から渡ってくる黄色いざらつきは、心にもざらつくものを運んで、投句にも戦の想い出を重ねて詠まれたものが多かったようです。

     春塵のひだ美しき仏達     大橋杣男
     霾天や盲ひたる日の在りどころ 石川予風

 彼岸参りの親族や、妹たちとの会食で慌しく過ごしたあとの雨の日、しばらくぶりに筆を取りました。






彼岸の入り

2010年03月18日 | すずめの百踊り
 朝夕は冷え込むものの、日中の気温は快適で、櫻の開花も話題を呼んでいます。
 今日の彼岸の入りは、雨で明けました。昔の人の「暑さ寒さも彼岸まで」とはよく言いえたものです。
 雪柳が大方雪を散らして、ゆすら梅が盛りに向おうとしています。早くもシャガが花を開き始めています。岩八手も庭石に張り付いたまま花をつけ、根元には八手の葉が見えてきました。
 掛け軸を仏事のものに掛け換え、仏壇の掃除を済ませて花とお供えを飾ると、準備完了です。牡丹餅はお菓子屋さんで買ってくることにして楽になりました。

今日見つけた庭の春
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外回りの垣根で今が盛りの連翹
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今年のゆすら梅は切り詰められてみすぼらしい姿です
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蔓桔梗は元気に蔓を延ばしています
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岩八手の花 足許には八手風の葉が出始めて
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 雨も上がった午後からは、「お四国」の八十八箇所を結願していた亡き母を偲んで、遍路を題材に何枚か描いてみました。毎年描く「お遍路さん」ですが、年によって感じが違っています。
 私も、いつかは宗教色抜きで歩き遍路の旅を歩いて「自分」とじっくり向き合ってみたいと思っていたのですが、足のほうが先に駄目になってしまいました。まだ車でまわるという手段もあるにはあるのですが、お寺は大抵高い石段の上です。地元の方の「お接待」を受けながら、「お遍路さん」と呼ばれる終わりのない旅を夢見ていました。







今日の試み

2010年03月16日 | 日々好日
 1914年建築の門司港駅は国指定の重要文化財です。わが街、北九州市の最北端に位置する駅舎には、九州の鉄道の起点を表す0哩標があります。
 このネオ・ルネッサンスの木造二階建ての駅舎が、シロアリの被害と、老朽化で倒壊の危機にあることが判明し、今騒がれています。
 門司港レトロ地区のシンボル的な存在でもあり、ホームからの階段がない、珍しいバリアフリーの駅でもあります。かつてはこの港からヨーロッパへと旅立って行ったもので、多くの送迎の風景が隣接して建つこの駅でも繰り広げられていました。ここから戦場へと出征していった兵士も大勢いました。
 2011年度にも大規模な補強工事に入るようで、7年前後の日数と15億円の費用がかかるといわれています。仮駅ができ、しばらくはこの姿も見られなくなるようですから、印象を留めておきます。
 もう1枚は、先日、深夜眠れないまま、テレビのスイッチを入れたとき、たまたま観た魯山人の食器の中から、紅葉の長皿の印象を描いてみました。






今日の習作

2010年03月12日 | すずめの百踊り
 絵付けのための構成が気になっているので、はがき絵にも「やきもの」の登場が続いています。今月の提出作品はまだ決めかねています。時にはと、真面目に丹念に仕上げました。

 先日7日の日曜美術館で、いま東京国立博物館で開催中の長谷川等伯の屏風絵を見て、京都に巡回するようなので、4月下旬から5月になら、季節もいいことだし、奈良もついでに。と。
 奈良遷都1300年でいろいろな企画や秘仏公開も行なわれているからとしきりに誘いを掛けてくれる妹がいるので、古都の華やぎを夢見て迷っています。ともあれ、自分の体調と相談です。
 一度あの「松林図屏風」を、自分の目で見てみたいものです。きっと図録の空間からはとらえがたい「風」が吹いていると思います。
 叩きつけるような筆遣い、大胆に残した余白が無言で語る奥行きの深さは哲学的瞑想さえ誘います。
 同じ画家が、猿猴図屏風で猿の親子を描く時の温かなまなざしを見せ、荒々しい激しさと繊細さ。金箔や華麗な色彩の乱舞で描くと思うと、墨のみの枯淡、知れば知るほど幅のある画家だと感嘆します。

 この年齢になってなお、憧れを抱き、わくわくすることができる対象があるのを幸せと思うことにしています。共暮らしの連れあいから呆れられても、熱っぽく憧れを語るものがあるのは、暮しの貧しさとは関わりなく、豊かな生き方と自分で勝手に喜ぶことにしています。

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初めての絵付け

2010年03月09日 | 日々好日
 紙の上に描くのとは違って、吸い込みが早く筆は走らないし、鉄釉の薄さ濃さの加減がまだ呑みこめません。試しに描いてみたらと勧められて、弟の作陶した大きめの、8寸の角皿に恐る恐る絵付けしました。蟹を描いたときは小さな欠けがあったり、古い素地だったりで気楽でしたが、今回は少々緊張しました。
 そのうえ、窯詰めのために主の茶碗を運んで行って、予期していないことだったので、筆も自分のものではないあり合わせ、下書きなどもなしのいきなりで、どうなることかと思っていましたが、土台の形がいいので、化粧の粗はどうにかごまかせたようです。
 そのうち次第に絵付けの要領もわかってくることでしょう。上達する??後日のためにつたない絵付けを記録しておきます。クリックとWクリックで3枚です。

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今年の文楽鑑賞

2010年03月06日 | 雀の足跡
 昨日は、例年楽しみにしている人形浄瑠璃「文楽」の地方公演に出かけました。同好のITサークルのKさんをお誘いして戸畑市民会館まで、昼の部の鑑賞です。
 演目は
 ●「卅三間堂棟由来」さんじゅうさんげんどうむなぎのゆらい
      平太郎住家より木遣音頭の段
 ●「本朝廿四孝」ほんちょうにじゅうしこう    
      十種香の段・奥庭狐火の段 です。
 本朝廿四孝のほうは、歌舞伎で上演されたのを、昔見ていますが、卅三間堂棟由来は全くはじめてで、荒唐無稽の筋書から、余り期待もしていなかったのですが、愛するものが引き裂かれる別れに、親子の情愛が絡んで、幼いみどり丸が木遣り唄にあわせて柳の木を曳く場面にはほろりとさせられました。キリの鶴沢燕三の三味線がことのほか冴えていたように思いました。
 本朝廿四孝は、八重垣姫という三姫の一つで、赤姫の代表格である主人公を、人間国宝の吉田文雀が人形を遣われました。今年81歳のはずですが、可憐にそして大胆な行動に出る姫君を見事に演じきられました。華やかで変化に富む舞台を人形であるがゆえにこそ伸び伸びと、宙吊りも不要で、狐の動きも面白く楽しんで惹きこまれていました。
 非日常の3時間は短く、夢の間のように過ぎてゆきました。

正月の通し矢で有名な京都・三十三間堂。その棟木の由来とは…。紀伊の山奥でかつて椰の木と夫婦であった柳の大木、その精が女性の姿になって、人間に生まれ変わった夫と再会、子供にも恵まれ幸せに暮らしていましたが、柳の木は三十三間堂の棟木として切り倒されることに―。正体を明かし、家族との別れを悲しみながら姿を消す柳の精。大切な妻を失った夫の嘆き。柳は夫が木遣り音頭を歌う中、母を慕う幼子に曳かれて行く…という不思議な物語。画像は柳の精の姿になったお柳。
戦国時代、対立する武田・長尾(上杉)両家の和睦のため許嫁となった勝頼と八重垣姫。その後、勝頼が切腹し、毎日十種香を焚き悲嘆に暮れる姫。ところが、勝頼が生きていたとわかり、姫は大喜び。しかし、それも束の間、勝頼のもとに討手が遣わされる。この危機を何としても勝頼に知らせ、命を救いたいと諏訪明神に祈る姫。やがて明神の使いである白狐が現われ、その力を借りて姫は勝頼のもとへと急ぎます。(公演チラシの解説より引用)




おまけの珍しい画像は、亡き人間国宝 桐竹紋十郎(二代目)の若き日の狐火の段。
 八重垣姫が諏訪法性の兜をかざし、「立ちたりしが・・・」と、池に映る自分の姿に狐を見るところ。
 所蔵の昭和17年発行の筑摩書房「文楽」よりの懐かしの映像です。



無窮洞のこと

2010年03月04日 | 雀の足跡
 平戸からの帰途、佐世保市の宮地区にある「無窮洞」と名づけられた旧宮村国民学校地下教室、つまり巨大な防空壕を見学しました。


 当時の校長の発案で昭和18年から20年の終戦の日まで掘り続けられたものです。掘ったのは先生に指導された高等部(今の中学)の生徒たちで、男子がツルハシなどで堀り、女子が整形、下級生が運び出しを分担しました。洞内には当時使用されていた少し小ぶりの道具類も展示されていました。
 凝灰岩をくりぬいた主洞は幅5m、奥行きは19mあり、教壇を備えています。(副洞は3m15m)書類室、台所、便所、避難道などもあり、空襲の時数回、全校生徒600人が避難したこともあるそうです。
 太平洋戦争の形見をとどめた史跡は、平成14年に市制百周年を記念して整備され、公開されています。(パンフレットより)
 私と同年代の人たちが、学校の裏手の山を掘り下げて作り上げた地下壕と思うと、当時のすべてが乏しい中で、ただひたすら「お国のため」に耐え、勤労奉仕に明け暮れた日々が蘇り、熱いものがこみ上げたことです。

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<主洞正面に設けられた教壇>
画像は5枚です。



 無窮洞のすぐ傍の「梅ヶ枝酒造」です。創業天明7年(江戸中期)。安政7年に建てられた主屋は国登録有形文化財です。試飲のうえ帰路の煩いとなる買い物をしました。